真夜中の太陽


さすがに早朝のみはやや緩和傾向ながら… 連日暑いアツイ。
興福寺に近い奈良公園界隈の大型な複数の池は、アカウキクサ科の真っ赤な水草が異常発生で駆除に大わらわとか…。
こちら岡山、実家の小さな庭池も水温が高止まり。
浄化機能をもたないから、高温の常態化は水をひどく汚染する。
ヌルヌルした糸状の藻が過剰に発生し、これが睡蓮や水草の根や茎にからんで、生育をさまたげる。
単体ではメダカ以下の小さなものが全体としてはびこると、藻から見ればミナミマグロみたいな巨大なものを浸食して呼吸不全に陥れるんだから… 水中のテロリストみたいなもんだ。
藻も光合成の一族だから酸素は供給するけど、金魚どもの遊泳をさまたげる。
ただ彼らにとっては、藻は邪魔であるにせよ、この高温は理想の範疇なので動きが活発になり、当然によく食べ… 当然によくフンをする。
この悪しきな循環が重なり、いっそう水質劣化。放っておくと藻がヘドロ化してえらい事になる。
去年以上、おとどし以上にひどい。




けどもそんな環境ながら、闊達な金魚たちは澱んだ水の中で盛大に性欲をもたげさせ… 数日前に気づいたけど、新たな子供金魚が、親にまざってヒラヒラ泳いでる。
3匹か、4匹。
2015年の新生児。
そうすると、いつものような、バケツでジャカジャカと水換える乱暴が出来ない。
澱んだ水の中の小さな子を搦めとって、捨ててしまう可能性が高い。
ホントは一気に水を全部取っ替えてしまいたいけど、なぁ… そうもいかない。
半分ばかりを用心しつつ換え、翌日にまた少々換えるといったアンバイ。
ったく手間が増える温暖化、なわけだ。



概ね50年ほど昔、子供たるボクは毎日、吉井川で泳いでいたもんだけど、それも8月の14日とか15日あたりで終了だったね〜。
お盆を過ぎたら川へ入らない、というのが鉄則というか常識というか、そうしつけられていたわけだ。
当時、祖母が云うには、「盆を境に川のオバケが子供をさらう…」という次第で、その頃まではかろうじて、かつてハーンが見いだし、柳田國男が採取分類した類いの民俗学的モノノケは… まだ生息していたんだ、な。
よって、15日あたりから子供は川から遠ざかる。
うちだけでなく、どの家庭もそうだった。
だから16日や17日の、津山は吉井川の鉄橋下の水浴び場所は閑散としてた。
なぜそうなるかといえば、お盆あたりで水温がかなり下がるのだった。
水温が下がるということは外気温そのものが下がってるというわけでもあって、いつからそうなったかは知らないけど、"庶民の生活の知恵"という按配での、それが常識というもんだった… んだろう。
そういう慣習の中で生活をしていたわけだ。
これは、なかなかいいね。
季節の変動は固定化し、それに合わせての生活のリズム、生活の慣習があったわけだ。



ところがもはや、今はもう… だね〜。
日々刻々の異常気象の連打。
慣習は廃れざるをえず、その上さらに地球高温化だから、お盆を過ぎようが9月になろうが、
「泳ぐときゃ、泳ぐぜ」
なのだった。規範となるべきなものが失われつつあるんだ、ね。


しかし… 「温暖」という一語は、文字通りな'穏やかな温かみ"なわけだから、近年の地球温暖化問題の"温暖"に、なんだか言葉の感触として違和をおぼえるなぁ。
いっそ地球高温化とか極暑化とかな方がイイようにも思えるけど。



ミステリーゾーン』の1篇『真夜中の太陽』(1961年。同番組第3シーズンの1話として放映)は、灼熱の太陽にジリジリ炙られる全地球規模な高温化の中、ニューヨークの1人の女流画家と、彼女が住まいとするアパートの老女主人を室内劇として描き、水の確保と部屋の空冷に苦悩する姿が描かれて実に秀逸だった。
政府はまだ機能しているけど国民に事の真相は伝えない。ラジオ放送のアナウンサーは突然に豹変し、政府の意向を伝えるのではなく、あえて地球環境の実態を話し出す。
毎日1度ずつほど、気温が上昇がしていることを。
より気温の低い場所へ移住する人。それが出来ない人…。
ニューヨークの町中の主人公達はその後者。



治安は悪化。
飲料水泥棒が乱入し、さらには、電線が暑さにやられ、アパート内のエアコンも扇風機も止まってインフラも停止。
老女主人は室内で熱中症に倒れ、女流画家も下着一枚の半裸で迷妄…。
やがて、彼女の油絵の一部が、熱さの中、ついに溶けて流れ出すあたりの描写は、絵が滝を描写したものゆえ余計、
「ギャッ」
となるんだけど… むろん、結末はいかにも『ミステリーゾーン』らしく、180度の大反転が置かれ、
「あっ」
と唸らされて、なるほど、エミー賞を取った作品だけはあるなと感嘆もするけど、この30分のドラマで描かれた外気温は、45度を越えて上昇中だった。
も〜、暑いなんて〜もんじゃないぜ、それは。



さてと実生活に話を戻すと… 峻烈な暑さの中、けど一方じゃ、鈴虫がもういるのだ。
先々週だか(だからまだ7月だったよ)に、親類の昆虫ハカセ(倉敷方面の某自然系博物館で週に1度か2度くらい、来館のいっぱん市民に虫の解説などもやってる)が、飼育ケースごとプレゼントをしてくれて、夕刻やら早朝にまことに涼やかな鳴き声をきかせてくれるのだ。



リ〜ンリ〜ンなベル音でもなく、ツクツクホ〜シの声高でもなく、鈴虫の声音(羽音)はなかなか表現しがたいけど、弱くもないが強くもない、凜としながら清浄… かすかに金属めいた音と知覚しないこともない… 淡麗とでもいって納得しなきゃいかんような、1種の幽玄的ベールをまとったようなサウンド
「なるほど、確かに涼しげなる鈴の音だな」
な、独創かつ独奏な心地良い音を室内で披露してくれているのだった。


「タンパク質が不足するとたちまち鈴虫は共食いをするから、カツオ節をあたえておきなさい。ぁ〜、もちろんキュウリやナスは欠かすべからずじゃぞ。よいなっ」
とのご指示ゆえ… その通りにしてるけど、早朝、外では85デシベルきっと越えてますの蝉たちの鳴き声が響き、ガラス窓の内では、鈴虫が雅びに静かな羽音(具体的にどこから音が出てるのか知らんけど)を出しているのは… 夏と秋を同時進行させてるようでヘンテコだ。
ハチャメチャな政治的流れとご同様、よって、混沌を否応もなく味わう… 夏なのだ。



8月9日。
朝を迎えた長崎の低空で、太陽とは真逆の分裂質の人工火球が炸裂してから早や70年…。おぞましい熱が瞬時に街をのんだ狂気は永劫の警鐘として語り継がなきゃいかんだろう。
式典で長崎市長は、「憲法の平和理念が今ゆらいでいるのではないか、という不安と懸念が拡がっている…」と申されたけど、然り。
こういう発言に勇気を要するような澱みが、庭池のそれみたいに拡がっているのも… いただけない。