テッド


映画はぜったいに期待して観るもんじゃ〜ない。
といって、期待しない以上、映画に接することが出来ない。
けども、時に、ふいに、誰も見上げていないであろう夜空で、1つ、流星が落ちるのをタマタマ目撃してしまったというような偶然で、1本の映画を紹介されることはある。
「これ、観てよ」
と、貸してもらったDVDがその典型かもしれない。


以前、このブログで記した『宇宙人ポール』がそうであったし、こたびの『テッド』もそうだった。
「これ、観てよ」
と、手渡されなかったらボクは… 120パーセント摂取しなかったであろうタイプな映画たち。
ちょいと不思議なのは、『宇宙人ポール』も『テッド』も同じ人からの「これ、観てよ」であったこと。
何だろ? ヒット率高すぎじゃんか…。
波長あってるじゃん。いや、こちらの波長を密やかに診断して「これ、観てよ」なのか…。
ま〜、そこを考えると体温が数度あがるから、なるたけマッタケ考えないようにして、でもこの一期一会な『テッド』との遭遇は大いな驚きモモノキな悦びだった。


こたびは2本を「これ、観てよ」なのだったけど、なぜか1本はボクの持ってる機器が読み込みしてくれずでガックリ。もう1本はうまく読み込んで、それが『テッド』だったのだ。



ヌイグルミのテッド。
これが主役と判じた途端、ボクの回路は遮断され、だから映画の存在は知ってはいるけど、およそ縁遠いというか、まったくもう銀河系の向こうのボクにゃ関係ない、チャイルド映画って〜な感じでごく機械的に縁なきシロモノとして片付けていたワケだ。
けども、「これ、観てよ」でしょ。
渡され、数夜経って、台風の雨の夜、観賞。
その挙げ句に、
「えっ?」
「へっ?」
「ぁ、…」
「うっそ〜!」
「ワオ〜!」
でしょ。
ええ加減なもんでござんすな〜。
なので、映画というメディアには、先入観というのは持ち込んじゃ〜いけないのだ。逆に、期待度ゼロの土中から神々しい花々が咲いてくるのを"愉しむ"ものなのだ。



信じがたいことに、『テッド』は…
1980年のボク自身と会う映画なのだった。
スターウォーズ』大ヒットでSF映画が雨後の竹の子のようにモゴモゴ多々に造られた時代。
その中にあって、超大予算が話題となったのが映画『フラッシュ・ゴードン』。
けれど製作者はディノ・デ・ラウレンティス。
豪華絢爛な役者をバンバカと起用するけど、いわゆる特撮部門への予算配分とセンスがあまりにヒドイと当時すでにそれが"定評"であった大プロデューサー。


超絶な期待と不安でボクの身体は帯電してピリピリして… その状態で、今はなき岡山グランド劇場の先行オールナイトに行ったのが、忘れもしない35年前の1980年の某夜なのだった。
期待は粉々にクラッシュ、不安が120パーセントの現実、すなわち失望になった夜。
チープな特撮。
哀れな程にイモ役者(元フットボール選手)の主役。
が、その脇をかためるのはマックス・フォン・シドーやティモシー・ダルトンといった絢爛の粒ぞろい。
最初から最後まで貫かれるクイーンの曲と歌声。そこは文字通りなスペース・オペラ。
キッチュな色彩の氾濫。
上品に申せば、ダイヤの粒と氷の粒がゴッチャになった混沌…。
下品にいえば、ミソとクソを混ぜて温めた異臭のハナモゲラ…。ぁ、ネギの刻みが浮いてレラ…。
それがラウレンティスの『フラッシュ・ゴードン』なのだった。


なので、以後、レーザーディスクもDVDを買うワケもなく、けれど、なぜか、直後、そのクイーンのサントラLPだけは買ってしまった… ボク自身の不思議。
サントラの名に相応しく、このLPでは、楽曲ともども、劇中のセリフや効果音も一緒に入っていて、いっそ映像を直に観るよりイメージが膨らむという、LP史上でも希有な1枚。



そのイモ役者が、まさにこの『テッド』では本物!として登場するんだから、ブッ飛んだ。
いや、ブッ飛ぶ… なんて表現すらブッ飛ぶ衝撃なのだった。
なぜなら『テッド』では『フラッシュ・ゴードン』をハッキリとイモ映画と評し、断じ、1種の嘲笑でもって括っているのだけど、けども同時に、そのイモの中に生じた"奥深いチャーミング"の"ダサいカッコ良さ"抽出を試みていて、それがおそらく、この『テッド』では成功しているという点で、またブッと飛ばされてしまうのだった。




それは主人公(ヌイグルミのテッドと35歳だかの人間ジョン・ベネット)の2人が子供時代に観ていた『フラッシュ・ゴードン』のヒーローが目の前に現れて、それゆえ見せてくれた驚きと狂気めく狂喜が、ボクがサントラを買ったという自分でも判っていなかった理由とが… そこで共通な、ま〜るで貝合わせのように、貝殻2つがピタリと合ってしまったダブル・パンチの、"理由の深層に肉薄"、の衝撃なのだった。



「いや〜、まいったな〜こりゃ」
懐かしさと新鮮さと、その両者を結ぶ糸とハリでもって、ボクは見事、この映画『テッド』につられてしまった魚のようなアンバイなのだった。
『フラッシュ・ゴードン』のLPレコード、そのジャケット裏は、『テッド』のハイライト・シーンそのものなんだから… 35年前の自分に会って笑み崩れるのも、ま〜、判ろうというもんだ。



ノラ・ジョーンズが出て、あけすけに自分のセックスの履歴としてヌイグルミのテッドとの事をしゃべるシーンもビックラこいたし、トム・スケリットの登場にもワッとしたけど、何といっても… 『フラッシュ・ゴードン』に会おうとは。
ドアを開けられると、そこは予期しなかった同窓会会場だったみたいな、とにかくのビックリ。
そして、感じたのは… 何かがボクの中で縫い合わされる感覚。
その何かは判ってる。
ちょうどこの映画の最後の辺りで、縫い合わされるテッドの上半身と下半身のように、35年前のボクと今のボクが再縫製された感覚。
ま〜、そこなのだ。



巻頭での『時計じかけのオレンジ』風味な主役らの登場シーンからして、すでにこの映画が、映画の映画による映画のための映画的匂いをたてているのは顕かで、事実、本編中たえず、かつての映画の決めゼリフやらオマージュが多々に登場する。


面白いのは、米国でのギークの生態かな?
日本のその一派がお人形愛に萌えはしてもナマな女性を苦手とするのと大違い。
米国ギークはナマの女性がまずありけり。
その反映としてのテッドの飲酒、スモーク、マリファナ、コカイン、女好き(人形だからナニがないに関わらず)の描き方。そして映画を日常の空気として吸いまくってる生活の根本テンポの… 日米の違い。
パーティ文化の中でのギークと、コミケワンフェスの販売物大集合としてのお祭で納得のおたく文化の差異(どっちがいいというコトではなくって)をことさら意識出来るという点も興味深い。
米国的な"陽"なスケベと、日本の"陰"(淫)なスケベの差。


だから、『テッド』をさらに多くの人に勧める気はさらさらない。
オタクな青年が大人のオトコになっていく成長物語といったショボな感想を抱くような方にはなおさら。


で。
至極当然に、今アタマの中で鳴っているのは、いうまでもなくフレディの高い声、舞い舞い舞いと上昇するクイーンの楽曲。
実はロックバンドとしてのクイーンをボクは好きでないのだけど、我が手元にあるサントラLPは我が35年前の我がカタチそのものだったと、しみじみ今は思って…、同時に、「これ、観てよ」への濃い感謝をば。
サンキュ〜Thank You. PS : I Love You. OK  って、そりゃYAZAWAだけど、『テッド』のおかげで今宵は裕福。



しかし、この監督(テッドの声)は… お尻の穴への興味が深いね〜。
足穂的に品よく記述すれば、彼のP的感覚が嗜好するのはV的なものよりもA的な出入りの消息にあるのではなかろうか?
テッドが部屋に呼んだ娼婦が床にしでかした"大"や、自動車レンタル販売店部長の言動や、オナラのネタやらやらA感覚ゾーンな話題に満ちていて、映画は人間の主人公ジョン・ベネットの結婚でハッピーに一応は終わるけど… 映画後の顛末としては、どうだろう?
そう、たぶん… この主人公ジョン・ベネットは彼女のV的なボディに加えて、やがてはA的なものも要求しだすだろう。
そう思えてしかたない。ヌイグルミのテッドと主人公はコインの表裏ではなく一体の人格とみなせば… その嗜好の流れもまた見えてくる。
このカップルはながく続かない。離婚が眼にみえる。
ホッホッホ。