充電


10/10の土曜の下石井公園「JAZZ UNDER THE SKY VOL.4」をクリアして、もう数日。
どうにもクタビレが抜けきらない。
いささか年齢がかさむと、たとえば筋肉痛などは直後にやって来ず、数日を経てピークに達するみたいな"津波化"が生じるんだけども… まさに今がそれかも知れない。
ごくごく内輪でもって、出演くださった方々と打ち上げ、ハグハグもしちゃってハッピ〜ブラボーでイベントを閉じたものの、その後の、この節々が痛っぽく、気持ちもかったるい皺寄せはよろしくない。
要は… 体内電圧がスッコ〜ンと下がってる次第。
山陽新聞は「JAZZ UNDER THE SKY VOL.4」を報じてくれて、4000人が集った華やかさを紙面に載せてくれているけれど、裏方のクタビレまでは、記しちゃ〜いない。(そりゃ、あたりまえだけど)
よって本夕は、K歯科での定期検診の日だったけど、クタビレ増量につき、キャンセル、日程変更をしてもらい… ゴ〜ロゴロしてる。



どうでもよいハナシだけどボクは… "電"がつく2漢字構成な単語が好きなようである。
電光 電位 電影 電動 電圧 電子 電撃 電極 電解 電源 電波 電磁 電装 電離 電飾
あげるとキリがない。
蓄電 発電 配電 放電 雷電 帯電 充電 光電 
幾つあるのかわからないし、何で好もしく思うのかもわからない。
いや、ホントは薄い靄の彼方の少年時代の、松本零士の『電光オズマ』とか手塚治虫の『鉄腕アトム』に登場した電光というロボットとかが、今もなお、ハートの底で疼いてるから… その"電"を好いていると… 思えなくもない。



※ サンコミックス版『鉄腕アトム』「電光人間」より


が。ただ、わけて今、とてもピカピカ光ると感じるのは、"充電"と思われる。
きっと、クタビレのさなかだからだろう。


"充電"には、どこか懐かしい気配もある。
「ボクは仕事をやめ長い充電期間にはいった…」
なんて〜古風な、だから懐かしい… そんな文章がある小説を読みたくなる。
それは、もう14回、14年も続けたジャズイベントでたえず味わう"祭りの後の寂しさ"めいた、自分の中の熱反応の急降下がもたらす感慨がイコールで結ばれるから… かも知れない。
もちろん、上記の一文は小説の巻頭になくっちゃ〜いけない。
けど、ま〜、たいがい… そんな小説はおもしろくはない。
「それがどうしたのよ、おいっ」
ってな他人事の感想しか実は、わかない…。


しかし、"充電期間"に入りたい心理だけはよくわかる。その期間に甘美と甘味な充塡が予測されるからこそ、身も心もそれを渇望する。
"リフレッシュ"と一見は同義なようでもあるけど、感覚として"リフレッシュ"という語をボクは好まない。
なんだか洗剤で洗われ日干しされるのを強いられるみたいで、たしかにパリッとはするだろうけど、スパルタンに矯正されるようで嬉しくない。
洗濯機の中でグルグル廻されてまでして… 心を洗われたくない。



といって、"充電"がために遠方に旅するというのもメンド〜だ。ましてツアーなど、とてもとても。
旅に出るがための準備、たとえば新幹線なり飛行機なりのチョイスと時間の見極めやら、チケット購入の手続きやら、空港でジッと待ってなきゃいけない時間などなどを思うと、消耗したエネルギーをいっそう消耗させなきゃいけないようで、とても、旅に出ようとは思わない。
ただものぐさにゴロリンと横たわって、本をめくったり、DVDを観て過ごせればいい… とも思ったりする。
けども、それでは今の日常といっこうに変わらない。
さて、困った。
どう、"充電"すればいいのだ。
いっそ、こういう場合、風邪をひいてしまうのが良いのかもしれない。
否応もなく寝て過ごすコトになるし、回復がための文字通りな充電でもあろうから。
いや〜、でも、それじゃ〜ツマランわ。


思えば、秋口のジャズなイベントを複数の良き仲間と主催するのとて、ボクにとってそれは、"充電"行為なのかも知れないのだ。
着座してジックリ聴けるワケじゃなく、裏方としてアレしてコレしてと、電圧があがったりさがったりし、時に帯電し、時に放電し、終えてうちあげの後にはもう衰電しきって、こうして燃え尽き症候なアンバイを呈するのじゃ〜あるけれど、総じて非日常な振る舞いゆえ、ボクにとっては"充電"の一語を上位に置いておかしくない、いや、置くべきな所作なのだ…。



※ 盟友の殿下ことK氏と。おや、背景にOH君がいる。(ジャズフェス情報は彼のブログを読めば全体が判るぞ)



※ 前回このブログで昼食にサバをと念じたけど、結局、身動きとれずで、山珍(さんちん)の中華弁当をとってもらって、ステージ裏でOH君と黙々せわしく食べたとさ。


そこで少し… 考える。
180度違う方角で考える。
徹底した横着と充電とを結んでみる。


平安時代に書かれた『御伽草子』。
それに出てくる物くさ太郎は、もらった饅頭を食べるのも億劫で、饅頭をお腹の上でコロコロやってたら路地の向こうに転げてしまい、取りに動くのも面倒なので、道行く通行人に、
「あれを取ってくれ」
と、ひたすら動かず待っているという… これっくらいな"充電"こそが、たぶん望ましいのではなかろうかと、そう考えるのだ。
徹底して自身からは何も行動を起こさない、その姿勢。
そこに絶大な効果と価値があるのではなかろうか。
いさぎよい透明な心象がそこに有りはしないだろうか。



ただ、3年のものぐさ生活のあと、太郎が京にのぼって、とある女に惚れてしまい、かなりなストーカーとしてつきまとい、彼女を妻にし、結果としてただの働き者になるという『御伽草子』の顛末はよろしくない。
物くさ太郎のものぐさが徹底していたがゆえに評判となり、彼を見ようと殿様(代官)までがやって来たというのに、それがただ働き者になるがための"充電"であっては、実につまらんじゃ〜ないか。


いっそ… 生涯横たわったまま充電し続ける男の物語を、読みたいもんだ。
でもだよ、充電の一語は概ねで次ぎなるステップがためのパワーアップという解釈が一般化されちゃ〜いるのだ。
けれど、はてしてそうか? それはヤヤ違うのでなかろうか。


白川静の『字統』で解釈すると、"電"の字はエジソンの電気以前のはるか昔に作られてエレクトリックを意味したもんじゃ〜ない。
けども、その説明に、「陰陽激熠(いんようげきゆう)する」とある通り、いわばプラスとマイナスが暗示されているワケで、エレクトリックの当て字として"電"を使ったのは極めて正しい判断であったよう思える。



で、"充"は語源をさかのぼると、人の大腹の象形ということで、満ちたものを指す。
なので、この一語"充"は補うという意味はまったく持たず、むしろ、"充電"と綴れば、それは「陰と陽が充ち満ちた状態」を顕したのが本来なのだった。
と、そう記せば、物ぐさ太郎のお饅頭さえ拾うのを億劫がった徹底したダラダラ生活は、その充ち満ちた満足な状態であったと解釈していいよう、思える。
地方代官までが太郎を見に出向いたのは、ダラダラ生活への、いわば羨望であったのだ。
だから先に書いた通り、その本人が京へのぼって、ただもう、1人の女官を追い廻しはじめて、"陰と陽の結合"にのみ執心し出したのは… これは向上でも上昇でもなく、欲に身をまかせた堕落なのだった。
物ぐさ太郎はそのものぐさをやめた時から、ただの、働いて家族を養う人になりさがったワケだ。


という次第で、"充電"の一語が本日ただいま、クローズアップされてるワケだ、ボク的には。
活力を得るがための"充電" じゃ〜、ダメなのだ。
あてどないグ〜タラでダラダラな時間を過ごすところに、潤沢があるらしいのだ。
よっしゃ、それで決まり。
も少しダ〜ラダラしていよう。
ニヤリ。