茹でた落花生

そも、落花生という名が誤解をあたえるのじゃなかろうか。
落花生すなわちナンキンマメは、地表に実ると思い込んでいる人はケッコ〜、いる。
ラッカがいかにも地表的。
けども実態はその漢字の通り、実が落下ではなく、落ちる花を指す。
受粉後の花が地面に落ち、そこから子房柄という部位が地面の中へ潜っていって、地中でプックリ膨れて結実する… それで落花生なのだった。
たいがいの植物は枝葉の先で花が咲き、ついでその下方で実が育つワケだけど、落花生はそうでない。思えばいささか奇妙な植物。
本体そのものは実りに関与せず、落ちた花が大事。花が地面に接触しなきゃ実をつくれない。ちょいと変テコだ。



こたび、それをザルいっぱいに頂戴したので、塩で茹でたのじゃ〜あるけれど、塩分薄めで、ピシッとしたソルティ・テーストにならなかった。
皮をむくたび、中から、茹がいたさいのお水が貝が潮をふくみたいに飛び出し、テーブルも濡れ、手も濡れて、ドライな市販品のお手軽にはるかに及ばないけど、ま〜、いいじゃないか、コレはこれ、ウエットな食味を重宝すべしなのだ。


落花生というのは南米を原産とし、それがインドネシア界隈の東アジアを経由して、お江戸の時代に長崎は出島に運ばれた。
そのことは、オランダ商館の、今に残る"舶来物目録"で判る。
1706年に、落花生は日本にやって来た。
(生類憐れみの法というケッタイな政策のまっさいちゅうで、赤穂浪士事件の3年アトね。ちなみに翌年1707年に富士山が噴火して被害甚大、小田原藩はその後20年が経っても復興のめどが立たなかった… てな頃)
だから、時の政権トップの綱吉は献上品として落花生を口にしたろうが…、家康もそれ以前の秀吉も信長も、この味は知らないのだ。
だから、彼らよりボクは、こと、落花生に関しては優位に立つ。
たとえ、塩分少なめ過ぎて、いささか生っぽい滋味になっても、
「信長が知らない味」
を、ボクは知っているワケなのだ。



で、それが嬉しいかといえば、べつだん、そうでない…。
ボクがいま思っているのは… 信長も家康もグローバル化されちゃ〜いない時代を生きたから、『世界はまだまだ未開』な時代なのだったという、感覚としての豆味をあらためているに過ぎない。
いまや食味に関しては、たぶんに国境もなく、アチャラのものがコチャラで味わえる均一な世界になっていて… その1例としての落花生のボイルなのだった。
このボイルは弱火で数時間を費やすので、そんな手間をかけるより、近所のスーパーでもって150円前後で買える製品の方がはるかにリーズナブルかつお味も良いんだけども… 1粒の落花生に歴史を学ぶみたいなコトは出来るんで、ちょっと、
「ほほ〜」
関心だか感心をして茹であげたのだった。



けども、さらにまた一方で、この濡れた落花生を手をベベチャにしてむいて食べる行為と、そこで得られる満足を思うと… かの茹で立て枝豆のむき易さに較べても面倒率が高いし、市販のナンキンマメ(ドライだけど)に味も及ばずなんだから、そこから先は信長も秀吉も思いだにしなかった領域での、あくまでもコチャラの問題として、より厳密な精査を計らねばいかんとの思いにも、また到達するのだ。
濡れたベベチャな1粒を喰らうより、繰り返すが、透明な小袋に入って売られたナンキンマメの方が、はるかに美味く、はるかに便利なのだ。
けども、はたして、それで良いのか……。
そこを問題にしなきゃ〜いけない。
量的問題ではなく、マメ粒を質的良性に転換する哲学が必需なのだ、と思わなくちゃいけない。



ある時、信長は茶にめざめた。(彼が創始じゃ〜ないですけど)
茶の湯を核に、碗をめで、茶室という特殊空間をわざわざ造り、そこでの振る舞いをもって"道"とする、新規な姿勢をうちだした。
秀吉がそこをいっそうはばたかせた。立役者たる利休を死なせる事になるほどに。



なので…、この大量にボイルしちゃった落花生を1人で食べきれるのかどうかという『大問題』に直面しているボクは… 信長・利休・織部・秀吉などを思いつつ、こっそり、先に書いた通り、量から質への転換を思ったりするのだった。
茹でた落花生の中のただの1粒に、ただの食味感ではなくって、ベチャにいえば、アートな抽象化を覆い被せて、茶でもって信長たちが到達しようとした"特殊領域"をば、体感できないかしら… と、そう思うのだ。
茶道があるなら、落花生道だって、成立する。


あの、「結構な御点前で…」の常套句だって、1連の所作の帰結として用いる、いわば循環コードの、Cに次いでAmに渡せば、そのあとはFに行くのがもっとも順当で落ち着きよい定置なんだから、それは茶であれ茹でた1粒の落花生であっても、御同様。
要は、覚悟の問題だ。
明日、戦地に出でて死ぬかも知れないけど、今日いま現在、作法にのっとり、茶をたしなみ、空間の中の時間をはみ、悠々と心静かにしておりますのハートの在処。
こたびのザルいっぱいを全部食べなきゃいけない… ワケはないのだ。
数粒に全量を託して心で食べる… という風に気持ちの大転換をいたせばヨロシイのだ。


よって、数粒のみ選んで質実に。
ザルいっぱいを"凝縮"して、味わう。
以上は… そのための理屈(笑)