宇治拾遺物語


パリでの殺戮ニュースに、『薔薇の名前』を思いかえした。
といって、ウンベルト・エーコの本はいまだ読了せずだから、ボクが知る『薔薇の名前』はショーン・コネリーの映画なのだけど、ま〜、それでもこの映画で… 1神教ゆえの窮屈と偏屈、また併せての、良性についても、多少は了解できたつもりでいる。
だから解釈を誤ったままに過信を深め、僅かな仲間内でもって一層に沈潜し、テロも辞さない強靱さ、あるいはそれに甘美さを募らせ、邁進してしまう心情もまた判らないでもない。
受けた側にとっては驚愕の理不尽ながら、決行した側にとってそれはテロルではなくって聖なる行為という"盲信の思い込み"なんだから… まったく困ったもんなのだ。
当然、それは受ける側にとって非道いもんだ。
突如弾丸を撃ち込まれた悲憤を思うと胸がつまる。


その点、宗教的なナニゴトかを背景とした熱狂という点で、この日本というのは実にあんがい、バランスがいい。
そこを知るには、今から800年ばかり前の、『今昔物語』やら『宇治拾遺物語』に触れるのがいい。
薔薇の名前』の、あの膨大な書籍を隠蔽している教会の図書館からすれば、この2書は完膚なきまでの禁書だろう。
わけても『宇治拾遺物語』は、いっそ、禁ずるどころか焚書処分でたちまちに焼かれ、なかった事にされる類いではあるまいか…。


1神教はなんせ神さんは1つっきり。選択の余地がないんだから、向かうべく方向もまた1つしかない。
なのでかつて1950年代、アーサー・C・クラークが『幼年期の終わり』でもって、あの遠い宇宙の彼方からやってきたカレレン達オーバーロード、"主上主"(近頃の訳本では"上帝"と記したのがあるらしいけど、それはニュアンスが違う)の地球への政策というか無言の威圧でもって、いみじくも、ありとあらゆる宗教は滅ぶもただ仏教のみが残った… という記述でもって、1神史観に強張った1部の方々にこの小説が受け入れられなかったのは、まったく頷けもするけど… キリスト教であれイスラムのそれであれ、神こそ"絶対"が場合によってヤッカイなものだとは、当時この小説を初めて読んだ中学生のボクでも判る図式なのだった。


この国日本では、いわゆる神社系の数多の神さんがまずあって、次いでそこに仏教の神々がやってきて、ハタッと気づくうちに、それらは習合しあって、いわば並列でもってマメ球が点灯するというようなアンバイになって、これが幸いした。
なんせ路傍の石にも神さんがいる世界、そこいらの河川敷の石っころより神さんがいっぱいだ。
極端に走らずともよい環境が出来てしまった。
絶対な存在がいわば複数形で相対化されてしまった。
むろんこれは巨大な弱点でもあるんだけど、同時に最大の利点でもあったろう… と思う。
そんな利生な空気を味わえるのが、『宇治拾遺物語』なのだ。


これを求めようと本屋に行けば、いわゆる古典として扱われた教科書的ソレも含め、も〜、山とある。



オリジナルは197話の、膨大ながら、ごく小さな小さなオハナシの集合物だから、その中から現在のセンセ〜がチョイスした何話をまとめて解説するといった本がハバを聞かせているのが2015年の現状で、ま〜、それはそれで良いけど… チョイスしたセンセ〜の嗜好が入るから、ホントはそれのみで納得してはいけない。
全197話が収録された"全集"こそに、接すべくなのが、本来の古典とのつきあいとボクは思う。
おかしなコトにセンセ〜方は、197話の1/3くらいを占める、いささかエロチック、いやシモネタ的な話をいっさい… 無視して自分の本にされているんで、これでは800年前の空気のフレッシュを感じようがない。
星5つのレストランの味覚を紹介するのみで、下町のおばちゃん、あるいはおっちゃん手製の風味をまったく知らせてくれない。



ま〜、そこは読んでいただくしかない。
宇治拾遺物語』の中にある人の素晴らしさと滑稽、わけてもおかしみは今に通じる… ごく日常の営みの中の、
「アッハッハ」
で、だからこの本を古典という型枠の中に封じている現在が実に理不尽にも思えるのだけども、『薔薇の名前』における狭い狭い史観の中に生きる1部の人にとっては、これは禁書かつ焚書かつ、いまわしき記録の本というコトになる。
薔薇の名前』の中で印象に残るのは、
「神は笑わなかった」
よって人もまたそれに準じるべく… といった狂乱の思想が現実に中世にはあったという事実を垣間見せたシーン。
それと較べて日本の中世は実に大らかで包容力が尋常でない。
今のセンセ〜方はチョイスはしない1話、第1巻第6話の、
中納言師時(もろとき)法師の玉茎(たまぐき)検知の事」
のおかしみある素晴らしさをここで紹介する。



ぶっちゃけた話はこうだ。
己のが煩悩を消滅させるがため、オチンチンを取り除いたという聖(ひじり)が高僧(中納言)のところに来た。
下半身をみせた。
毛むくじゃらだけど、なるほど、そこにナニがない。
けども高僧は何だか違和をおぼえた。
それで彼は部下の僧侶たちに男を押さえつけさせ、両足を拡げさせ、配下の小僧にソコをさすってやれと命じる。
原文はこうだ。

「あの法師の股の上を、手を広げて上げ下しさすれ」とのたまえば、そのままに、すくらかなる手して、上げ下げしある。とあるばかりにある程に、この聖まのしをして、「今はさておはせ」といひけるを、中納言、「よげになりたり。たださすれ。それそれ」


現代語訳で申せば、小僧の"柔らかな手"で股間をさすり抜かせて、
「良さそうじゃないか… ほれほれ… どうじゃ…」
というアンバイになる。
で、その結果…、

「さすり伏せける程に、毛の中より松茸の大きやかなる物のふらふらと出で来て、腹にしはすはすと打ちつけたり。中納言を始めて、そこら集ひたる者ども諸声に笑ふ。聖も手を打ちて臥(ふ)し転(まろ)び笑ひける」


その後3行でもって、この種明かしが記述されるんだけど、要は、煩悩を消失するがためと称した聖は、自分のそれを御飯粒のノリでタマタマに貼りつけ、その上に毛をフサフサ貼り付けて、それで自分が高徳な身と称していたのを高僧らが見破ったというに過ぎない小話。
けども、このおかしみは絶大だ。
小僧僧の"すくらかなる"、すなわち、"柔らかい"手でもってしごき抜く描写の洗練度が素晴らしく、松茸のようなのがそれでニョッキリ屹立してしまって、ピクピクしてるって〜アンバイが、可笑しいじゃないか。
"しはすはす"とは、ピクピクしちゃってる様相の、なかなか綺麗な表現なのだけど、残念、今はもう忘れられた表現だ。
この小篇のクライマックスは、その"しはすはす"で、高僧ほか大爆笑し、かつ当の詐欺師たる聖までが、手をうって笑い転げる… というくだりだ。
このケッタイな状況はどうよ!


この話には、仏(神)を命題にしつつ人のバカさ加減をいかんなく発揮させる溌剌に満ちて、だから徳ある高僧もその配下の僧も、ましてや当の詐欺聖までが共々に顛末に腹を抱えて大笑い… というのだから、とてもこれ1神教ワールドでは、禁書モノの磊落でしょう。


聖も僧も皆なが同列な位置にいて、上から目線も下から目線もなく、ただもうこの次第に笑い転げるという、ただもうそれだけなのだけど、けども、この大らかさにこそ未来があるかと… ボクは思うんだ。
のびやかな、この太さの中に、神も仏もおわします… ってなアンバイではなかろうか、と思えるのだ。
神さんを絶対化する思い詰めより、あるいは科学の進歩より、よほどこちらの方に継続的希望をボクは見いだすんだ。



なので… ボクにとってみれば、『宇治拾遺物語』に加え、同期の『今昔物語』などなどは、世界遺産の筆頭、ノーベル文学賞の筆頭たりえる… 古典なんかじゃ〜ない現代の先端を駆ける"黙示録"だ… と、そう密かに大袈裟に思ったりしているワケなのだ。
ま〜、もちろんに、仏や神の尊いことも、またたっぷり載っていて、それはそれで面白いのだし、夜から朝への僅かな狭間でパレードする百鬼夜行も登場するんで起伏に富んで退屈なし… いわば密かな、これはバイブルとしての座右の書… なのだ。