模型たちの帰還



3年に渡って全国アチコチで開催された『サンダーバード展』が終了。
模型たちが帰ってきた。
時間の経過は早い。あっという間の3年…。
帰還は、美術運送の業者さんの手によるもの。
いささか高額な保険がかかった荷物。
なので木箱に入っていたりもして… 正直に申せば… 置き場に苦慮する仕様。
6畳くらいの空間を占有する。
事務所を撤収して早や10年、すでに会社組織でなく私営の身の上ゆえ、この荷物は… すなわちイコール、私的空間を6畳ばかりを奪われるという次第なのだから、3年に渡る展覧を終えての安堵の反面、
「ぅ〜ん、置き場が…」
と、弱ったことなのだった。
そうでなくともついこの前の講演で用いた模型の大半を、いま、メンテナンスというか、若干の修復をするために持ち帰っているんで、使える空間が凝縮されちまって、
「あんりゃ〜」
年末の煤払いどころでない、片付けのイロハ入門その最初の関門という… アンバイな今日この頃なのだった。



1年を締めくくる月に、アレコレの煤を払うという古来からの慣習を、ボクは好む。
句読点としての「煤払い」に、日本を意識できる。
といって… なかなか大掃除とはいかないもんで、自室の換気扇を掃除しなきゃ〜と思っただけで、結局、昨年は手つかず、
「どこがススハライなのさ?」
自問するコトしばしなり。


さ〜、そこにさらに荷物を抱えたワケだから、この年末… 掃除というよりは片付けに重点が傾きそう。
『インディ・ジョーンズ 失われたアーク』は、超絶なお宝が山と積まれた大倉庫のシーンで映画は終わって、お宝発掘の虚しさを否応となく見せてくれたけど、そうなのだ… モノの倉庫化(死蔵という意味で)くらい空しいものはないのだ。
そうでなくとも模型というのは嵩張るもんだ。
どのようなカタチの模型であっても、いざそれを片付けようとすれば、函に入れるなりで確実に立方体になって、本やDVDに較べるまでもなく、空間占有が甚だしい。



模型とは空間を喰むもの…。
いまさら、ことさらに、それを意識する今日この頃だ。


最近、ゴミ屋敷なる奇妙なもんが出現して近隣の方々大いに迷惑ス、というニュースをきくけど、あの心理は何だろう? 
空間を、例えそれがゴミであっても埋めたくっていけない衝動が働くのだろうか? いや、そもそも彼なり彼女なりにはそれはゴミではなく、自己の延長上の大事なモノなのだろうか。
その反面、この頃は意識的に身辺にモノを置かない人もある。ミニマリストを自称し、モノからの心の解放を願う。
シンプル・ライフは好もしい。
けれども、あれも捨て、これも捨て、本は電子化すれば良いと突っ張られてしまうと、ヤヤ困る。
僧侶のそれとはまた別種な違和をおぼえる。
ボクには逆説的にそれはモノにこだわり過ぎたゆえの玩物喪志として、映る。



日本の「煤払い」の面白みは、年末の煤払いによって捨てられた穴のあいたヤカンやヒバチやナベや子供のオモチャどもどもが、捨てられた悔しさによってオバケに変じ、百鬼夜行しちゃうという、掃除して捨てる側とは逆の、捨てられるモノへも関心を寄せた、その想像力の豊かさが含まれるから… 好きで、かつ面白いのだ。
これは他国にはないと思う。
しかも、それら百鬼夜行どもは、夜中じゅう練り歩くわけでない。



付喪神記』(つくもがみき)によれば、真夜中の子(ね)の刻でなく夜明け前の寅(とら)の刻に彼らは登場する。
彼らの怨み節パレード時間は、夜明け直前の30分か40分程度のものなのだ。
なんせ穴があいたり、ほころびていたり、柄がとれてたりと… なかなか集合にも時間がかかる。
おぞましい姿になってうち揃った頃には、もう夜明けDay Break1時間以内という有り様。
せっかくパレードに出ても、じきに陽はのぼるから、彼らは消失しつつ解散しなきゃ〜いけない。
よって行動半径はとても… 狭い。



ボクは、このせつなげな顛末にモノの哀れをおぼえる。
同時に、この物語を産んだ人の、ハートの中の詩情の豊穣に感嘆をするというワケなのだ。
要は、モノがなきゃモノガタリもままならないという次第を、いま噛みしめてるというワケ。
むろん一方で、たとえばiPhoneを1年ごとの頻度で機種交換しなきゃイケナイような危機意識が産まれる最近の土壌は、まったく嬉しくもない。
モノ以上に今は情報がはびこって混乱の火の玉が膨れ上がってるから、
「石橋も叩いて渡らなきゃ」
と、要注意。
モノに流されぬよう、ご用心ご用心と自戒しておこう。