インターステラー

やっとこさ、『インターステラー』を観る。
2001年宇宙の旅』、『コンタクト』 …いささか数少ない哲学風味が濃い作品の継承作には違いないだろうけど、ボクが感心したのは、ジョークをいうロボットだった。
『2001…』のハル9000は無論にジョークはいえず、ロジカルなイエスとノーの2極でのトーク、いわばクールそのものであったから、逆説として、そこに"個"がみえた。
ボウイの息子ダンカン・ジョーンズの『月に囚われた男』のロボットも、そうだった。
この前、ボウイ同様に亡くなってしまったアラン・リックマンが声をあてていた『銀河ヒッチハイク・ガイド』のロボットは、悲観論者としての発言が可笑しみを誘うけど、いささか擬人化が過ぎた。
対して『インターステラー』のロボットは、角っぽいヨウカンを組み合わせたようなツマンナイ見てくれなのだけど、アメリカンなジョークをいう。
そこが面白かった。
見てくれ同様に、声高でも声低くでもなく単調な声ながら、コトバの紡ぎがいわば、新しいのだ…。
監督クリストファー・ノーランの手腕を誉めるっきゃ〜ない。
ジョークの頃合いでもってヒューマンとマシーンの信頼関係の濃淡を垣間見せた事例は、まだないのじゃないかしら?
従来の映画のロボット=人工知能は、いわば縦方向に高く深くと進化したよう見えるけど、ことここに至ってようやく、横方向へ拡がる可能性を見せてくれた。


とはいえ、そんなトークが出来るマシーンと現実のたとえばiPhoneの中のsiri(いうまでもなく、音声返答のsiriは、あくまでもデータ収集の上でのマックスとしての返答であって、知能じゃ〜ない)の差を思うと、ジョークとて相手の心の先をよんだ上でのヒトコトという事実にも気づいて、ロボットに心をよまれるのもどうかしら… いささか気味悪い感触がないわけでもない。
まだボクの感性は、ロボットから話しかけられて平気という程に成長していない。アトムを産んだ天馬博士がとどのつまりアトムを嫌悪した気分が、最近、この年齢でやっと判ってもきている…。
だからこそ、『インターステラー』の中のロボットが逆に気にもなるワケで。



この映画でイチバンに監督の力量が垣間見えるのは、それは人工知能としてのロボットではなく、ブラックホール通過のビジュアルでもなく、人の部分。ほぼラスト近くでの、老いきってベッドに横たわる娘の元へと宇宙の彼方から戻ってきた主人公とが紡いだ、その対話だ。
もうねぇ… 否応なく、泣かされたよ。
きっと99人の監督は、そこを最大ポイントにするだろう。
涙で金魚が泳げるくらいに、より泣かせてやろうとするだろう。
が、ノーランはそうしなかった。
そこが意外だった。
予想される観客の反応に彼は媚びなかった。その誘惑に溺れなかった。
劇中、あれほど焦げるホドに父に会いたがった娘は、そのほぼ生涯の終わりにさいし、父とのその再会に感動し喜んだけど、その直後だ…、彼女はその父の登場よりも、自分の孫たちへと視線をそよがせて微笑んで、父から心を離れさせていくんだ。
それを実にさりげなくノーランは画面に置いた。
だから驚いた。
未見の方はそこを見逃してはイケナイ。
この映画のテーマは未来に希望を託す… だろう。
あまりにさりげないんで拍子抜けすらおぼえるが、最大クライマックスは、マチガイなく、そこだ。
この冴えに、水の上にスッと立たれたようで驚いた。
人の真の別れとは、静かさの中にこそあるのだろう。
悲しいという感情は未練がもたらすものだったかと… 痛感させられ、突かれた衝動で別な意味で、ボクは泣けた。


それにしても主役のマシュー・マコノヒーは幸せな人だ。
『コンタクト』、『インターステラー』、このさきも名作と謂われ続けるであろう作品に2本も出ちゃってるんだから、いささか希有なことだ。
ま〜、もっとも『コンタクト』では主人公のジョディ・フォスターと対峙する立場とその融和という過程があるんで、即行では好きになれないキャタクターじゃ〜あったんだけど、彼が主役の映画としては、ボクは『リンカーン弁護士』を薦めよう。タイトルで魅力を90パーセント失っているけど、頑な、あるいは傲慢な、あるいは冷淡な人柄が、何かを契機に心変わりをするという役において、この人の端正でやや濃いめな顔つきは実に有利にはたらいてる。
フムム。


以下、参照までに画像をば。