模型はむず痒い

求めている本があって、しかし既に絶版、今は古書として概ね1万円越えの価格。
高額… 躊躇しているさなか、朋輩が、
「プレゼントしますよ」
某所で見つけてくれた。
思わぬ展開、こりゃ大喜びビックリビックなギフト。
「高かったろ?」
「それが… 」
某書店は… きっと相場を見誤ったに違いない。



過日。午後、そのKuyamaカップルと今年2度目の鼎談。
ディアゴスティーニの「サンダーバード2号」に「ミレニアム・ファルコン」、昔の怪獣映画、麻と絹、岡山のかつての紡績所のこと… ハナシの連鎖、いつも通り、アッという間に時間が過ぎる。


ディアゴスティーニの「サンダーバード2号」は非常に良く出来ている。
しかし… 何かが違う。
スケールモデルでありつつトーイでもあるという贅沢の二重奏が、逆に足を引っ張っているようにも取れるが、根本原因ではない。
それはもう実に微妙で、「ここが違う!」とかいうのではない性質を持った… "何か" と、そういうハナシをする。
氏いわく、
「数値化でしょう」
が、おそらく、その"何か"だろう。
そのもどかしい絶妙を、氏は、
「たぶん、愛しかたの違いでしょう」
そうも口にした。


うまいことを云うもんだ。
愛の数値化は、難しい。
特定の誰かのみを好きになるように、万人向けはとりわけて。
模型は、むず痒い。



※ 上:原型(1961年版『モスラ』より造型。渋谷界隈を進む幼虫、昔の渋谷はまだ田舎)

※ 下2枚:kuyamaマジック! 見事なテクニックと愛。



ま〜、しかし、そのような取り止めなきコトを数時間話して飽きない我々は… なかなかチャーミングじゃないか。
飽きるどころか、時間が足りヌ…。
「私らは数値化できね〜な」
との結論をえて、ちょっと安堵する。
「面倒なオヤジになったな」
とは、けっして思わない。



模型は、たえず、逃げだそうとする。
たえず、何かのエキスが失せていく。そう思えて久しい。
満足が持続しない。
船底でぬめる水垢みたいに、不足感が次第に増加する。
なんだかその辺りの消息が、この年齢になって判ってきたようにも思う。
ただ、まだまだ、それに言葉をあたえられない。
そこが、もどかしい。
楽家は自身が創った曲を繰り返し、弾ける。
そのたびごとに、何かを注入したり、また逆をやったりと、いつまでもその曲と共にいられる。
模型家は、それが出来ない。
だから模型はアートに昇進しないのだろう。
いや、そんなこた〜、ない。
『模型』という一語が示唆する"模したカタチ"という意味合いが悪いのではないか? そこを外せば絵画における"模写"ではなく"写生"に近似するのではないか…?
などと、どうでもいいコトをいつまでも考える。
「面倒なオヤジになったな」
とも、ホントはちびり感じつつ、動じないフリをする。



桜餅にコブ茶。
コブ茶はサジ加減によっては随分と塩分高めで、ハイホ〜♪ハイホ〜♪高血ェ〜ツ圧♪、よろしくないけど、この取り合わせは良しヨシ。
時にこういうのも良いもんだ。
ただ、お琴とか尺八の音が背景にあってはいけない。
そういう定番はそこらの老舗和菓子屋さんに任せ、ミュージックを流すなら、「ラ・マルセーユ」とか、あるいは「ペルシャの市場」とか、
ここではないどこか
を微かに感じながら… というのが、滋味が拡がってヨロシイかと。和の味に世界広しを感じなきゃイカン。

と… やはり面倒をいいたがる。