土曜日曜


土曜の午後。
山留の主や出版社の方々と共に、岡山県立美術館前に集合くださった30名ばかりの皆様を引率し、界隈をご案内。
観光ガイドではなく、既にそこにない過去の建物やら人物往来を語るという次第は、なかなか難しい。
施設内でのトークならプロジェクターなどあって、かつての家屋の模型写真などのビジュアル表示も出来るけど、アウトドアじゃ、限られる。
ひたすら喋って、参加の皆さんに想像力をめぐらせてもらうコトになる。
ご理解いただけたかしら? 
と、ちょっともどかしい。
ぁあ、しかし2月… 2時間越えのアウトドアは足元冷え冷え… 話を聴いてくれた皆さんもそうだったろう。
おまけに後半で小雨がパラリと… 雨男の本領発揮。



夜。けったいな夢をみる。
自分は孫悟空になっている。
砂漠のいっかくに『スターウォーズ/フォースの覚醒』に出てくるみたいな大きな屋台があって、そこは本屋らしいのだが、お師匠(三蔵法師だ)に、
「退治しなさい」
と云われる。
書棚にズラリと並んだタイトルを眺めるに、すべてエロ本と判って、ガゼン興味がわく。
師匠の眼を盗んで、中身をみたい…。
この書店を退治してはいけないと思いはじめる。
しかし、どうやら師匠も同じらしく、その場を離れない。
「水を汲んできなさい」
と云って、こちらを遠ざけようとする。
そうはいくもんかと… こちらも動かない。
それで店頭でもって二人、ジッと座ってお互いを牽制しあってると店の主人が、
「買わないなら出てってくれ」
険しく云うので、やむなく、後ろ髪ひかれながら店の外に出る。
そこへ、京都在住の仕事仲間やらジャズフェスの仲間や小学校の同級生らが、
「用意が出来ました」
大きな滑り台を運んでくる。
ハシゴを登って滑り降りると、それで約2Kmぐらい前に進める… 自動車みたいな装置と知って、「変なの」と笑いつつ、それに乗ると、もうエロ本を見ることが出来ないんで大変に困ると弱っていると、お師匠がこっそり本を買って、風呂敷に包んでいるのを目撃。
分厚い辞書のような豪奢な装丁本で、経典を求めている人はさすがだな〜と妙に感心するも、師匠は3000円しか持っていない筈なので、そのお金で足りたのか? 訝しむ。
ひょっとして夕飯をまたおごらなきゃいけないのかと… 非常にイヤな気分になって眼が醒める。
不可解なのは、その三蔵が誰であったかが判らないこと。顔を思い出せない。



日曜。午後。
桂そうば 早春 岡山落語会』。
昨年は急なスケジュールが出来てしまい、キャンセルせざるをえなかったので、そうば氏の噺を聴くのは、2年ぶり。
共演は桂小鯛。
題目は、『おぼろ太鼓』『くしゃみ講釈』『大山詣り』。


いっときおよそ1年半ほどボクの身体の面倒を診てくれた医師が亡くなって、この日、葬儀。
ボクより1つ若く、細君はボクと誕生日が2日違うだけ。
もうまったく予期しない突発の訃報であったから… それで一瞬、二瞬、喪に服そうか躊躇もしたけれど、葬儀に出ず、あえて落語会に身をおく。
『おぼろ太鼓』はひょっとして演題が違うかもだけど…、面白い。桂小鯛の『くしゃみ講釈』は、やや声音が単調で今ひとつ。『大山詣り』は登場人物多々で1歩しくじるとツマンナイけど、そうば氏はうまくまとめてた。
噺を堪能しつつ、色々な感慨が浮きつ沈みつ。



映画『禅』(2009年公開)の中で、中村勘太郎扮する道元禅師が、藤原竜次扮した北条時頼に、湖面に映る満月を、
「切ってみなさい」
そう促すシーンがあって、禅問答的抽象が極まる場面ながら…、そこがやや未消化なビジュアルとして提示されてしまって、必ずしも名シーンとはなっちゃ〜いないけども、なぜか… その時の、水面で揺れるフルムーンを思い出す。
静かな水面の月。揺れて姿が変じた月。一瞬消え、また現れる月。
映画『禅』は良いカーブを描きつつも、あちゃこちゃ、惜しい失敗をしたな… と思い起こしつつ、しかし… ボクは実際に禅座したことはない。



そうば氏に笑わされつつ、

悲しいこともあるだろさ 苦しいこともあるだろさ
だけど僕らはくじけない

そんな歌を思い出しもする。
座禅のさなか、そのメロディと歌詞を念頭に抱いてると… やはり後ろから肩をバシリと叩かれるのか? とか思ったりもする。
いや、そうではあるまい… とも思ったりする。無念無想じゃないけども、欲には遠いよう自己弁護する。


多分に、わかるコトより解らないコトのほうが多い。
土曜の午後、"まち歩き"に参加くださった女性(この方はシティミュージアムでの講演を何度か聴いてくれていたようだ)が笑みつつ、
「模型で亜公園をお作りになって、永久的にカタチが留められましたね」
と、もの申されたけど、はたして… 永久とか永劫とは何じゃ? の思いがある。
百年。千年。万年…。
永久には遠い。



たとえば、透明なグラスは、それがヴェネチアの高額なものであれ、キリンビールの景品であれ、数千年はその状態を保つだろう。
しかし、1億年は保たない。
ガラスというのは"過冷却液体"という構造ゆえ、いずれ、なが〜〜〜い眼で眺めると分子構造が変化しだして、透明度が失せ、表面もブツブツし出し、やがては薄黄色い萩の茶器のようなモノに変化する。
本の背表紙が次第に黄ばむように、物質とは時間に喰われていく… ものらしい。
美術館でもって大事に保管されていようと、億年という単位では、もはや展示できない性質のものに変わってしまうワケなのだ。
こりゃ… 空しい。


だからこそ、数多の宗教者が色々なカタチでもって永劫がもたらす迷宮の解決策をば、むろん禅も含め、アレコレと考えてるワケじゃあるけれど… 日曜のボクは、
「すすめ〜〜 ひょっこりひょうたんじ〜〜ま〜♪」
永劫は脇に置き、微かに微笑むことに努める。
禅には、"円相"という基本となる概念がある。
"円満"という意味もそこに含まれ、"縁"も同音として混ざる(らしい)…。
天神山付近での土曜の初対面の方々への昔語り…。プチパインでの桂そうばと小鯛の噺…。そして高屋クリニック主の急逝…。いさい同時にのんで、ボクなりの円を閉じたつもりの、この週末。