オデッセィ 〜オオイヌノフグリ〜

数週前から近隣の地ベタに、青と白の可憐なのが見えていたけど、今や盛り。
小指の先より小さい花なので、目立たないけども、注視すると、アチラにコチラと繁茂してる。



オオイヌノフグリ
なんとも犬に失礼というか、そも、この花に失礼というか、ケッタイな名をつけたもんで、発音をはばかるような所もある。
誰が名付けたかは判っている。
牧野富太郎先生、だ。



この国ではイヌノフグリオオイヌノフグリの2つがあって、イヌノフグリは日本の在来種(らしい)で、絶滅危惧の II 類に入っている。
だから、ほとんど見られない。
やや紫色をした花が咲く。




一方のオオイヌノフグリは白と青のコントラストが鮮やか。
これは外来種。明治初年頃に初観察されたようだ。
おそらくは幕末期、門戸を開かざるをえなくなって急ごしらえで造った横浜港に荷下ろされたコットンだかに種が紛れ込んで、以後拡散、日本に定着したんだろう。
今や、どこでもみられる。
厳冬期はどの植物も生長しないけど、オオイヌノフグリはその間隙を縫ってセッセと根をひろげ、陣地を増やし、早春に花を咲かせる。
1日1輪。午後には萎んで崩れ、次の花弁が翌朝の開花準備をするのはアサガオに似る。寒さの中で勢いをみなぎらせる。
同じ環境化で同じように育つ在来のイヌフグリは、この大陸的あつかましい浸透で片隅に追いやられたワケだ。


しかし、その名は一向に、可憐な花色とマッチしない。
けどもまた、一度聞けば、もう忘れないという特異な名でもある。
そこいらの地ベタで勝手に咲くから、園芸店に売られる次第もない。
けれどこれが咲くのは春になる以前のまだまだ大気が冷たい2月や3月のごく一時に過ぎないから、季節のない街の路傍での味わいとしては、
「稀少な旬」
といっていいだろさ。



フグリは陰嚢と書く。
だからイヌノフグリは文字通り、犬のタマタマだ。
オオイヌノフグリは、タマタマがでっかくなる…。
からして既に稀少なのだけど… とはいえ、たとえば、3月初めが誕生日の女性にこれを鉢植えてプレゼントしちゃえるかといえば… そこは大変に難しい。
「○○○さん。ほらっ、あなたのために… オオイヌノフグリを」
そう云って差し出せるコ〜ガン無恥な男はいない。
これがま〜、リトルブルーとか、ブルーホワイトとか、そういう名であれば事態は大きく変わるけど、男性器の部分名である以上、ちょっと容易でない。
しかし今の所、このフグリの名を変えましょうという運動は… どこにも生じない。
署名運動も抗議活動もない。


だからま〜、気の毒な花なのだ。
「まもなく春が来ますよ〜」
と、オオイヌノフグリは数多の花どもの先陣かつ斥候として季節の最前線をつかさどって、実にまったく頼もしい神々しいポジションにいながら、誰も摘んだり、じっくり観賞しないのだから、気の毒この上ない。
すべて、その名がヨロシクないのだ。
植物学界の御大たる牧野先生は… 罪な命名をしちゃったもんだ。
でもま〜、逆に、そんな名だから、実はヒッソリと多くの人が名を知っているというアンバイもあるようで、事実、この名をボクに教えてくれたのは女性だ。



ともあれ、路傍の写真をパチリ。
「もうすぐ春ですね〜♪」
と、キャンディーズの3人とこの花をダブらせて微笑むボクを、セクハラ思考(嗜好)有りと決めつけちゃ〜いけない。
ボクはあくまでも名ゆえの、この花の不幸を伝えたいだけだ。


野に咲く可憐な花としてはたとえばエーデルワイス(日本に自生していないけど)なんぞがあるけど、これはそのままリゾート地でホテル名に使われたり、ご当地にゃエーデルワイス航空という会社だってあって、しっかりプラモデルにもなっている。
神戸にはエーデルワイスという洋菓子メーカーだってある。
けども、オオイヌノフグリ・ホテルはないし、イヌノフグリ航空もない。
名を冠したものは1つとて、ない。
たとえあったとしても、純米酒オオイヌノフグリを呑みたいとは思えない…。



とても可憐なのに。とても季節のめぐりを示してくれているのに。
やはり、不公平を思わないではいられないじゃないか。
バック・トゥ・ザ・フューチャーが可能なら、牧野御大を訪ねて、
「センセ〜、後世への影響リョク甚大ですぜ」
と、モノ申したい次第。



イオンシネマ岡山で『オデッセイ』を観る。
掲載のオオイヌノフグリの写真は、日付けが変わった翌早朝に撮った。



マット・ディモン扮する植物学者のマーク・ワトニーは1人取り残された火星でジャガイモを栽培する。
宇宙船で地球から運ばれた物資はさすがに厳選かつ厳重を重ねられているから、当然にジャガイモにオオイヌノフグリの種子は混ざっていない。
人類が他天体に出向くさいの基本は、この"厳選"だろうね。他県にヒョイと車で行っちゃうのとは大いに違うんだからネ。
その結果として、いわば夾雑物のない環境に住まうコトになるから… 火星生活はつまらないものになる…。
そのうえ1人。ロビンソン・クルーソー・オン・マースというアンバイ。
火星は月ほどの小さい天体じゃあるけれど、そこにただ1人の寂しさはちょっと… 早朝の冷気の中のオオイヌノフグリの孤独を思わないではない。
マット・ディモンにオオイヌノフグリを重ね見るというのも何だけど… ま〜、フグリ系の哀しみというか… 今日を生き、明日につなげる努力の、その営みの奥側にある寂しさ… を地球への帰還という"目的"でうっちゃってる姿にはなかなか興をそそられたのであった。
火星にとって外来種以外の何物でもない人間の、その排泄物とてが火星にとっては"汚染"なのだというコトもこの映画で学べる。
が、その排泄物がマット・ディモン扮するワトニーの食料を生育させる大事な大事な宝にも… なる。



『オデッセイ』という邦題をボクは感心しない。
この映画のタイトルは『The Martian』。
すなわち"火星人"。
マット・ディモンは火星に住まいその荒涼を体験したことで、逆に"地球人"であることを確認し、友愛でいっぱいの地球を再発見したワケだ。
またリドリー・スコット監督も、その友愛を軸にこの映画を編んでいる。
だから邦題としての『オデッセイ』は、意味がない。むしろ、映画の意図するところを消している。
『マーシャン』のままでよかったよう、思う。


映画の終わりで、地球に戻ったマット・ディモンは公園のベンチに腰掛け、その足元にごく小さな植物が芽生え出ているのをみつけて、
「ハロ〜」
声をかける。
愛しさに満ちた、良いシーンだった。


それでボクもまた… 地球に居ることを悦ぶ。
オオイヌノフグリが咲く朝もまた。
某所の某公園の石のベンチがお尻に伝える冷たさも好ましく、
「我ら地球に有り…」
微笑んで、360度グルリ辺りを見廻し、そう意識した。