世界衣装盛衰史

のど飴を買いに近所のスーパーに出向いたはずなのに、帰ってきたら、6Pチーズと"えび黒こしょう"だけ持ち帰ってる。
なるほど最近、その"えび黒こしょう"の味にはまって頻繁に買っちゃいるけど、店のフロアを歩む内、目的を忘れてる。
心ここにあらず…。
「ボギーよ俺も男だ」と背筋を伸ばしてはみるのだけど、何かが漏れ出てシャンとしない。ピエロが自分を笑わせて、どうしようというのか…。



同夜、本を注文。
『世界衣装盛衰史(よのなかはきぬぎぬのうつろい)』というのがあって、そのタイトルゆえ、今チョット取り組んでいる事の資料になるかも… と元気しぼって取り寄せた。
ら… ガッチョ〜ン。ちょっと違ってた。
作者は清水義範
他作家の文体を真似て見事に作品に昇華させるでお馴染みのパスティーシュの大家… 同名とは思ってたものの、まさか御本人の著作とは。
こりゃ、資料にならんワと、苦笑した。
本の大半はビートルズのヒストリーなのだった。



いやしかし、せっかくだからと読んでみるに、これがめっぽうオモシロイから、さすが清水義範
鳴門の渦に巻かれるみたいに、アレヨアレヨと読み耽る。


奧さんが実はビートルズ東京公演に出向いた人で、そこはインタビュー形式で書かれているけど、1人の女子高校生の眼を通した"あの時"がかなりなリアルさで伝わって、いささか昂揚をおぼえた。
(彼女は親の仕事関係だかで偶然にチケットを貰えたらしい)


武道館周辺、お堀の外周は右翼街宣車ズラリ。1万を超す警官ズラリ。
場内ステージ前にも警官ズラリで客席に対峙。
でもって開始前のE・H・エリック司会による、
「いいですか、何かあったら即中止ですからねっ」
の再三のお言葉。
まるで国家が騒乱の危機に直面してるような、異様なカチンコチン…。



しかしフタを開けるまでもなく、観客はまこと静かにおとなしい。
演奏がはじまれど、一部の女子以外は、歓声をあげるコトもまだ知らない。まして総立ちなど… それは未来のこと。別な意味で客もカチンコチン。
後にリンゴかポールかがインタビューに答え、「世界ツアー中イチバンに静かだった」と、これまた逆にとまどいみせた東京公演…。
※ 別証言によれば、立っただけで警官が駆け寄ったとのハナシもある。


女子高校3年の彼女はその時、ひじょ〜に醒めていて、ましてあの広い空間の武道館でのミュージシャンと自分との距離はかなりのもんだから、終演するやトッとと家に帰り、その夜のテレビ・ニュースでのビートルズの映像の方に期待を寄せた、という辺りの描写には、
「ほほ〜」
感心しきって、シガレットがうまかった。
ナマのビートルズよりもテレビの中の4人に何かを感じている、という次第がすごくオモシロイ。



彼女はその帰路での電車からの東京の光景が、「暗かった」とも印象していて、そこも感じいった。
1966年の東京の夜はまだ暗かった… んだ。
と同時に、それは… 治安のため演奏中もいっさい照明が落とされなかった、いささか理不尽な、武道館内の明るさの対比的反映でもあったろう。
こういう証言が過去を甦生させてくれる。


で、もう一つ、「ほほ〜」だったのは、彼女は武道館での当日を迎えるために、

濃い色の地に小花のプリントの木綿生地がはやってて、私の買ったのはこげ茶色の地だったわ。それを下北沢で買ってきて作ったの。ギャザースカートで、レースの襟のついたワンピースよ。それを着ていった 〜中略〜 ファッションはみんなダサかったね。

という、手作りのお洋服事情なのだった。
ボクはこれに、"歴史語り"をすごく感じた。
今、そんな手作りのお洋服を着ける子は、ほぼ、いまい。
彼女が特異なのではなく、当時66年頃の女子はけっこうなパーセントで手作りなお洋服を、"ここぞ勝負"で着ていたのじゃなかろうか… と想像するのはボクの勝手だし、おそらく、これは想像ではあるまい。
映画『ALWAYS 続・三丁目の夕日』は舞台が1959年とチョイと前だけど、堀北真希のロクちゃんは薬師丸ひろ子に縫ってもらったワンピースで日曜を女友達と楽しんだじゃないか。



60年代頃にゃ、既製品ではなく、いわば家庭内オートクチュールとしてのミシンによる縫製が活発(流行り)という、そういう背景があったという次第なのだ。
ヒストリーというのは、誰か個人のその時の姿カタチがイチバンにリアルに喰い込んでくるもんだ。
年号の暗記なんて〜のはただ時計の時刻を云えるというだけで、歴史でもなんでも、ない。


ま〜、そんな次第でこの本は、のど飴購入の失敗でガックリではない、想定外のお得かつ思わぬ"参考資料"ってな拾いモノ感があったんで、あえて一筆。
前回にジョージ・マーティンのことに触れたばかりだったので、ビートルズがらみの連鎖にまた御縁も感じたり。



しかし、その文体は誰のパスティーシュだろ?
軽快で軽妙やや抱腹。章の合間のけったいだけど本質ついた訳詞の置き方などから推測するに、
『カート・ヴォネガットビートルズ評伝を書いたのを浅倉久志が翻訳したら、こ〜なります』
ではないかと… 確信的にボクは邪推するんだけど。
そんなヤヤこしい設定をするかなァ。
…いや、きっと、するだろ。SF畑が出自の清水にしてみれば、そりゃヤヤこしい内に入らないさ。



残念は、ジョージ・マーティンのことにいっさい触れていないこと。かたやブライアン・エプスタインのことはたっぷり書いていらっしゃる。
音楽面のプロデューサー、営業面のマネージャー。両輪、どちらも4人には大事。
上出来なパスティーシュながら、評伝としてこれは偏頗。
おそらく清水義範はマーティンの言及をあえて避けたのであろう。彼は楽器が弾けないのであろう。
いや、ひょっとすると、マーティンのことも書くつもりでペンを持ったものの、書き終えたらマーティンが消えていたという可能性だって、ある。
ボクののど飴の一件みたいに。
この場合、事後の感想は決まってる。
「すっきりしない」
と、オチがくる。