ディケンズ - 前編


ずっと、ディケンズを苦手だった。
彼は徹底して下層階級の市民を描いたから、読むにしろ、それを原作とした映画にしろ、当時の英国の社会制度の歪みに翻弄される人達を眺めるという次第で… 憤ったり泣けてくるのがイヤだった。
なので、ディケンズに接しないよう避けていたのじゃあるけれど、けれど歳月が流れた。


チャールズ・ディケンズが亜公園が岡山にあった頃の、同時期の作家だったと気づくと… 苦手とはいえ… やはり… 接しておかねばイカンだろうと思い直した。
(より正しくは、明治時代に入る直前の作家)
ならばいっそ、映画でディケンズに触れてみよう… そう決めて、前回の講演前、何本かDVDを買い入れて接してみたのだった。
ただ、それを持ち出すと煩雑になるから、講演ではいっさい触れなかった。


5/8の講演時の写真提供はK氏。
ボクが手にしているのはカイコの繭。明治日本を語るキーワードたるカイコ(絹)のハナシをしているところ。
カイコこそが明治日本の真髄なのだけど、今回はパスしますね。(^_^)


明治半ばの日本と英国。
鎖国を解除して通商を結び、上質の絹糸が英国へと運ばれた時代とはいえ… まだまだ直線的に両国を結ぶヒモはない。
ないけれど日本と英国、似通うコトはあって、それは、多数の孤児がいたという事実だった。
そうなのだ… 路頭に孤児がたむろい、往々にして、野犬のように扱われてもいたんだ。
岡山市内中心部の亜公園が賑わった頃、この岡山では。石井十次が懸命に孤児救済の事業をおこなっていた。
現在の歴史本の中じゃ、1行か2行で記述される"小さき"事実なんだけど、身分社会の中での無節操なセックスの顛末、貧困ゆえに捨てられた子、あるいは… などなどの要因重なっての身寄りなき子供達が方々に、父も母もない捨てられた子供が路頭に多々、いたんだね。



英国では既に制度として、その子らの救済のための施設が幾つもあった。
けども、それは機能不全をおこして、いわばカタチだけ。実態は劣悪な収容施設、不幸が不幸を増長させるようなものだった… ようだ。
ディケンズは当時(日本の幕末期だよ)の拝金主義の温床たる身分制度、あるいは産業革命前期の資本主義の弊害、その構造の歪みに眼を向け、それゆえに苦痛でのたうった下層で生きざるをえなかった市民、わけても子供を描き、それで喝采された。
おのず、ハナシの根は暗い。
いずれの作品もイジイジさせられる。
中産階級がさらに下層を虐げる理不尽が存分に登場する。
搾取、不平等、無知、傲慢、服従、忍従… あまりに醜いから逆に滑稽にも映る。
わけても、無知…。無知がゆえ、多少に知恵ある者に凌駕されるという図式…。
しかし、ディケンズはただ暗いものを並べるだけにしなかった。物語の後半を大きく動かかせた。
汚濁の渦中にも澄んだ清きものが多々あるのを、見せてくれ… 無知への救済も小説中ではおこなって、いわば、バランスを醸し出した。
不幸の中にも笑いがあるのを見せ、小さなハッピーエンドで終わらせた。
ま〜、そのあたりが、今もって欧米で根強く彼が読まれている文章上の真髄なのかも知れないけど…、ここではその歴史的背景や実態には触れない。


以下、彼の小説ではなく、それを原作とした複数の映画を観た感想をまとめて、ディケンズのはいた息をお知らせしたい。
ボク個人の興味は、亜公園(明治半ば)のより広い空気を味わい気分ゆえにの… ことだった。


映画については、いまもって、
「あの映画は、その原作とまったく違うんだ、ヒデ〜よ〜」
など申される方があるけど、原作と映画は違ってあたりまえなのだ。
それは、ニワトリが先か、タマゴが先か… 程度な比較であって、派生から変容への過程をこそ面白く思わなきゃ、原作を映画にする意味を見いだせない。
原作から何を抽出したか、何を捨てたか、何を加えたか、あるいは、どう曲げていったかを計って、はじめて、逆に原作の原作たるを知るというコトではなかろうか…。
原作は土中のジャガイモであって、それをどう調理したかで映画は映画になるのだし、またその原材料ジャガイモとしての真価も際立つというもんだ。
そういう感じで、映画のディケンズを通して… 明治の頃を感じみた。



クリスマス・キャロル』 
1843年に出版のディケンズの代表作たる1つ。
根本は、信じる者は救済されるという、宗教的心地のハナシ。
この映像作品はけっこう有る。日本では紹介されないけれど、ヨーロッパのあちゃこちゃではクリスマス・シーズンともなると、「赤穂浪士」みたいに、TV放送でもってドラマが繰り返し創られているようだ。
映画もそうだ。ちょいと前にはジム・キャリー主演でR・ゼメキスがCG多用で創ったのもある。
けど、こたびは出来るだけCGから離れ、やや古い、CG以前の作品を観ることにした。
クライブ・ドナー監督で名優ジョージ・C・スコット主役の1984年作品。



クライブ・ドナーはどうしたワケだか、まったく映画として特徴ある作品にこれを昇華させていない。映画的工夫が薄く平坦。
悪しく云えば凡作。
だけど、ベチャリといえば、原作に忠実。
けども逆に、そうであったから… 酒に例えるなら、原酒に近い味わいがあるよう… おもえる。
善人が善人であろうとすればするだけ、悪人は悪人であろうとする。だから溝は埋まらないのだけど、そこに神さんという未来を見るマナコを持った第三者が登場することで悪人なおもて往生す… という構図。
4人の亡霊に導かれて主人公の中に善が芽生える次第が、けっして上手には描けてはいないけども、そこはさすがにジョージ・C・スコット… 説得力ある演技が監督を救い、かつ、原作のエッセンスを際立たせたよう、見える。
善人になったジョージ・C・スコットの溌剌は、それ以前の暗鬱とあまりに違い、ジギル&ハイドのようで、恐いほど。




おそらく、この映画の最大の欠点は19世紀半ばのロンドンの家庭内光景があまりに明るいこと。
もっともっと暗いはず。なぜって、蝋燭の時代だからね。
その蝋燭のみの光ゆえの、闇の怖さ、そこに登場する亡霊の真の怖さが、顕せていないこと…。
といって、1984年当時、闇を闇として描くフィルム的技術は確立されてもいないんだから、あまりクライブ・ドナーを責めたくもなしだけど、たぶん、その辺りの光事情がもっとわかれば、主人公の転向の本質がもう少し理解できるような気もして、惜しい。


以下、次回に続く。(苦笑)