ディケンズ - 後編


映画で味わうディケンズ。その後編。



『悪魔と寵児』
1947年の英国作品。
今もって版を重ねているらしき、かの復讐劇「ニコラス・ニクルビー」、その白黒映画。
"学校"と称して集められた当時の孤児や浮浪児の置かれた位置が判って、かなりな衝撃をうける作品。
(当時、救貧院や養育院といった施設が英国の方々にあったのだわさ…)
子らは常にぶたれ、蹴られ、虐げられ、あげくオドオドした眼を澱ませた声なき群像となっていく。
激烈なまでに憎々しい演技の高利貸に扮するは、はるか後年、ジェレミー・ブレッド好演のTVシリーズシャーロック・ホームズの冒険」の二代目ワトソンとなった人のお父さん。
そのワトソン氏もなくなって、もう4〜5年が経つけど、この作品では、先の我が講演で持ち出した、当時の衣装事情もチョイとわかる。
着替えのシーンがあって、そ〜、この時代はコルセットの時代なのだ。
女子は、自分1人では着付けるコトも脱ぐコトも容易でない下着を着けている。顧みるに奇妙な下着の時代の19世紀…。
そして男はフロックコート。まだブレザーはない。
1947年という制作年が大事。
ナイロン素材が発明された7年後。まだ映画の撮影現場にその新素材はおそらく浸透はしていまい。
となると… 衣装も19世紀半ば同様の素材に近いと思える。ファッションというフィルターでディケンズの時代を眺めたって、イイじゃ〜ないか。
「チキチキ・バンバン」のヒロイン、サリー・アン・ホワーズが出てる。たぶん彼女が16〜17歳頃の作品だろう。デビュー作かも知れない。
(ボクは「チキチキ・バンバン」の中のこの女優さんを大変に好きなのだ)



映画としては… 後半、原作のストーリーを追うがゆえにシーンが説明的羅列で興醒めだけど、主人公兄妹の母親のその無知加減が、あの時代を実によく示しているようで、イジイジさせられつつ、真実のかけらを眼前に置かれたようで、捨てがたい。
無知が貧困を産む、ともいうが、なぜに無知なのかという点に焦点をずらしていけば、やはり… 当時の社会全般の歪みも見えようというもんだ。

そうか…、この時代の英国じゃまだ「決闘」があったのかと知れる。明治の日本に眼を転じると、「仇討ち」が禁止されたのは明治の6年だ。
ほぼ最後の仇討ち事件は明治の5年で、これに… まもなく岡山電気軌道本社となる阿部道場(現在はオリエント美術館)の主らがからんでいるハナシは… また別の機会に。



『オリバー!』
1968年作。
監督は『第三の男』や『華麗なる激情』のキャロル・リード。この人の才能にゃまったく敬服する。しかもミュージカル。
同年のアカデミー賞6部門を制覇で、豪奢な幕の内みたいなもの。


いかんせん、子供が子供でいられる賞味期限は短い。
鼻がツンと上を向いたジャック・ワイルドは2006年に亡くなってしまったけど、この映画の中では永遠の子供として活きる。

実のボクは、『クリスマス・キャロル』の利己的自己中心な主人公スクルージに近似るようなアンバイもなくはないから… 子供を警戒するようなところがあって、早いハナシ、子供が苦手なのじゃ〜あるけれど、この映画の中、ディケンズの子供達は逞しい…。
リバプールの貧乏な家に産まれた若者達が楽器片手にハンブルグに出稼ぎし、アルコールとドラッグと娼婦に揉まれ、大概ならそれで身を潰す環境ながら、天上的にラブリーな詩歌を創る純正純真を失うことなく、やがてビートルズとなっていったのを、思ったりした。


かつて昔にこの映画に接したさい、凄惨さがいつまでも尾を引いたと思ったけど、こたびの再見では、むしろ、この映画は楽天の基調だったと真反対な見解。
巨大なセットと膨大なエキストラで見せられるロンドン市街には、ただもうアッケにとられ、実際はもっともっともっと暗い… と懸命に眼にフィルターをかけていかなきゃ、映画の表層のみを味わってチョット損をするような弊害あり。



『デヴィッド・コパーフィールド』
ディケンズの代名詞たる原作。1999年のBBC制作のTV用ドラマ。
ボクが子供の頃は、「カパーフィールド」と訳されていたよう思うけど、今は「コパーフィールド」と表記するのね?
しかし、このDVDパッケージは… 何じゃ。
我が国では、『ハリー・ポッター』の最初の映画が入ってきたさい、急遽に発売されたようで、むろん、なぜって、この子(ダニエル・ラドクリフ)が出てるからだ。
もし、この子が出てなかったら、おそらく我が国じゃ〜DVD発売なんてなかったろうから… ま〜、ありがたいといえばありがたいけど、パッケージはいかん。いかに売るためとはいえどだよ。
しかし、その『ハリー・ポッター』の主役ラドクリフ君がここでも主役ゆえ、いみじくも『ハリー・ポッター』を書いた作家の中にもやはりディケンズがいるな〜、とも認識させられた。
虐げられつつも逞しく育ってく、成長物語の原本としてのディケンズ…。
社会批判の作家としてでなく、最初の情報化時代の編集者的作家としてでなく、グローイングアップを描いた作家として… 見直してもよいかとも思ったのが、この『デヴィッド・カパーフィールド』。ディケンズなくば、たぶんに「ハリー・ポッター」も産まれなかったんじゃなかろうかと、思う。



オリバー・ツイスト
意外やロマン・ポランスキー監督作品。2005年作。
彼の不幸な生い立ちを考えると、撮って当然かもとも思うけど… ポランスキーディケンズという組み合わせが妙味。それっくらい、ディケンズ作品は今を呼吸しているというコトなのだ。
しかし、そこが哀しや、この日本では今1つ了解される気配が薄い。
と書きつつボクも日本育ち… 大陸的光芒が肉化されない…。


キャロル・リード作品がミュージカル仕立ての陽であれば、こちら陰。日本のデンデン太鼓みたいに両者をクルクル廻すと陰陽あわさってのディケンズサウンドが聴けるようには思える。
大都となりつつあるロンドンの、石畳となったものの、馬車が駆け荷車が引かれるゆえの、"石畳の上にのった大量の土"といった描写の細やかさは、さすがポランスキー
それが雨でぬかるむ。
ジュブジュブ、ジメジメ、な感じ悪さがうまく映像化されて、ここは得点。



例の二代目ワトソンことエドワード・ハードウィックが、良き紳士ブラウンローさんに扮しているのは、おそらくポランスキー監督の映画人的配慮かと思える。
彼は子供達の喫煙シーンを消去しなかったけど、煙の出方がとても薄いのは… 現代の映画が置かれた"制約"に違いない。今、19世紀半ばのタバコ(パイプだ)をリアルに描けないコトは、大きな問題だ…。



ダークナイト ライジング』
クリストファー・ノーラン監督のバットマン映画。
ディケンズの『二都物語』から着想を得たという…。
映画館で観たけど、どうもピンと来なかった。ことさらに… 悲劇をみたくないという心理もあって、それで「ダークナイト3部作」はDVDも買わず終いなのだけど… どうしようかしら?
と、悩んでる内、先にこれを書いちゃった。



ともあれ日本が開国して明治になって… という時代の英国では、都会に孤児が多々いて、さらには人の階層化で明暗わかれ、幾重の涙が垢まみれになって流れていたと知れるけど、ただそれだけではなくって、垢まみれの笑いもまたあったろうとも… 何本かの映画を観りゃ、判るのだった。
そうでなくば救いがない。また、繰り返してディケンズ原作のドラマや映画が生じることもない。
要は「清廉と逞しさ」がディケンズの主題なのだろう。
困難苦渋に耐えて生きるチカラ。
そこを思うと、19世紀半ばの時代を生きた人が見れば、今を生きるボクらはかなりひ弱い生き物というコトになるんじゃなかろうか。
ディケンズの頃とおそらく今はそう変わっていない。
あいかわらずの現状肯定かつ増進での拝金と、それによる歪みとしての階層化、そして何だカンだの制約…。
今、ディケンズに学ぶのは、タバコの煙すら描けなくなりつつある、"臆病な衰退"なのかもと妄想した。