カフカの猿


ジャバジャバと外で雨が降っているさなかの真夜中、寝っ転がって本を読むのが好きな方。こういう夜はいつまでもあけてくれるなと思ったり。
なので翌朝、さわやかに晴れて蒼い空があったりすると、けっこ〜ガッカリする。


昨夜の雨中、カフカが1917年に書いた短編『ある学会報告』を久しぶりに読む。
それで一筆。



人にはほぼ必ず苦手なモノというのがあって、例えばそれは牛乳であったり、ゴマ油であったり、あるいは尖った鋭角的なものに戦慄するであったりと… 多岐に渡って一様一括りには出来ない性質なものなのだけど、ボクの場合のその最大値は… 猿なのだった。
猿がダメなのだ。
この現象の発火点は判ってる。
小学生時代の中頃、場所は名古屋。東山動物園という規模の大きな動物園があって、そこに家族で観光に出向いたさい、各種の猿どもが入居したオリを順々に眺めている内、大変に気持ち悪くなった。
眩めいて、嘔吐した。
両親ビックリで、
「昼食にあたったかも…」
などと推測を交えつつ、子たるボクの介抱に励んでくれたらしきなのだけど… 昼食にあたったんじゃ〜ないコトは当の本人がイチバンに承知してる。
ボクは猿にあたった。


数多の猿を見ているうち、奇妙な感慨にとらわれて、それで嘔吐したワケなのだ。
すなわち、
『自分を見ているような…』
と、いう脅迫的嫌悪だ。
小学生ながら、ボクは一種の哲学をめぐらしたらしい。ザムザの不安神経に通底するような… アンバイなのだった。


以後、猿がダメになった。
本であれ映画であれ、猿が出てくると拒絶の戸が閉まり、しばし、おぞましさに難渋するのであった。
だからTV番組での野生モノのドキュメンタリーとかでオラウータンやらチンパンジーが登場すると、強い拒絶反応が今も起きる。
なので、その手の番組には接しないワケなんだけども… 映画『猿の惑星』の、それも旧作に関しては、意外や、平気なのであった。
なぜなら、それは人間がメーキャップして演じてるワケで、ホントの猿が演じてるんじゃ〜ない。
だから観ることが出来た。
この映画の封切りは1968年で、同年には『2001年宇宙の旅』も公開され、やはりそこにも猿が、それも『猿の惑星』以上にリアルな猿というか人間となる直前のそれが登場するのは皆さんご承知の通りとは思うけど… これもまたまったく平気なのであった。
むしろ、そのリアリティ作りに感嘆して拍手するくらいで、一向に猿への嫌悪は湧かないのであった。



だから、ボクの拒絶反応というのは、ホントの猿にのみ生じるというワケなのだ。
現実に存在する猿という生き物のみ、ダメなのにゃ。
輪廻転生がホントにあるなら… ひょっとしてボクの前世は猿であったかも知れず、それで自己的嫌悪が生じると、30代の頃にゃ半ばジョーク、半ばホンキで思ったりもしたもんだ。


映画『猿の惑星』はなかなか秀逸だったけど、猿が文化的存在として登場する物語の原点(原典)はどこにあるか?
意外や、カフカなのだ。
しかも、その僅か数ページの小篇はメチャにユーモラス。
それを昨夜の雨中、久しぶりに読み返していたのだ。


滑稽かつ真摯なリアリティでもってカフカは、一匹の猿が人語を操り、そこまでの経緯を猿自身が学会で発表するという、そのスピーチを小説として編んでいる。
これが実に見事で、抱腹で、辛辣で、かつ奇妙なくらいにリアルで、それゆえ、ボクははじめてそれを呼んだ時に2度続けて読み直したもんだったけど、こたび久しぶりに読み直してみるに、やはり面白くって、やはり2度、読み返した。



かなりの確率でカフカのそれが映画の原作(ピエール・プールが1963年に書いたSF)の元手となっているという指摘は、誰もやってない。
高尚な文学の巨峰とSF映画を結ぶ人が未だ出ていないのを、ボクは不思議に思うのだけど、事次いでゆえ、ここに記しておく。
ボクが連続2回読めたのは、おそらくカフカの翻訳をやった池内紀のチカラが大きい。
イケウチ・オサムをボクは当初、イケ・ウチノリと思い決めてしまったのだけど、彼が花田清輝の諸作を編纂した日本文学集成の第29巻『花田清輝 楕円幻想』でもってはじめて、誤りに気づいて、内心ひどくコッソリ恥じ入った次第ながら… この人の訳文は、信頼に価いする良いフィルターとボクは思う。



『ある学会報告』は、岩波の文庫『カフカ寓話集』に入ってる。
カフカがつけたタイトルじゃなく、これはあくまで池内紀が"便宜上"つけたもの。似つかわしいかどうかは個々人による。