シン・ゴジラ


近頃、担々麺にこる。
といって… 味覚追求やら食べ歩きする次第でもなく、イオン岡山に出向いたらフードのフロアでオーダーするというだけなんだけど、自分としてはヤヤ珍しい。
こと味覚に関してボクはかなりの保守、相当の右翼というか臆病者、アレコレ新しいモノを摂取ということが出来ない。
なので担々麺も、実は数ヶ月前までは1度も食べたことがなかった。
ま〜、それゆえ、新規な味にヤヤ驚き、ヤヤ感心し、
「中央の味噌がよ〜」
と、オーダーするというだけのもの。
けどもチョット興もひかれ、カップ麺を買ってみたりもするんだけど、
「なんだ全然違うじゃん」
てな感想が1つあるきり。
ベチャリといえば、バカの1つおぼえ…。リベラルに遠い。




シン・ゴジラ』を観る。
大変に感心している人もいれば、庵野カラーというか庵野節に飽きをおぼえた人もある。
導入部から中盤にいたる官僚と政治家のくだりはいささかステロタイプじゃあるけど、ケッコ〜よろしかった。引き込まれた。
安全保障条約下、日本が米国の傀儡国というスタンスも、よろしい。
しかし、見終え、時間が経つ内、ボクの中に積もってくる感想は、グロテスク。その1語。
ゴジラの変体におけるシーンがそのさいたるもの。
どうもそれが尾をひいていけない。
残滓として不快が積もる。


しかし、ゴジラというのは放射能を帯びた生物なのであるから… 本来不快でグロなものでもあろうと思えば、この一点で本作は、従来の"神聖化"されたゴジラのイメージの打破にはそれゆえ成功したようにも思える。
ていよく勘ぐれば、こちら観客の持っている従来のゴジラ・イメージを庵野監督は破壊すべく務めたかも… とも思うのだが。


その昔、故開高健が何かの講演で、
「かつてアフリカには巨大で素早い恐ろしい怪物がいた」
「しかし、それにライオンという名があたえられた途端、それは恐ろしいものではあるけども、ただの動物の1種になった」
との話をしたことがある。
こたびの『シン・ゴジラ』に、何か… その1節が明滅した。



客席には親子連れが何組か。
この映画ではじめてゴジラを知る小学生は、ある意味で幸せだとも思う。
判らないコトバや単語は山とあっていい。ストーリーも判らなくていい。
ただもう恐かった… で、いい。
恐かった、の感覚こそが大事。
そこに未知をおぼえ、やがてそれは経年と共に理解していくもんなんだから、子供には"大人用"のゴジラを見せるべきとも確信する。
映画の造り手は、子供にも判るような… という配慮をすべきじゃない。

しかしまた一方で、"大人用"のゴジラとはどんなもの? という疑問も明滅しだす。
ま〜、それゆえ、新作公開のたびに、こうしてお付き合いしてアタマをひねったり傾げたりをするワケで。
こたびもまた解答はえられない。



ちなみに、『シン・ゴジラ』は都心での災害というコトで市民や官邸の避難移動はあるけども、皇室避難というシーンはない。
これ… 大きな欠落。
タブー視と自粛。その連打に… 現天皇は窮屈を背負い、憂いてらっしゃるのではあるまいか。