御伽草子 ~浦島太郎~


室町時代の極めて初期に書かれたらしき「浦島太郎」は、『御伽草子』の一篇として、誰もが知る物語。
太郎が玉手箱を開けて爺さんになっちまうタイムスリップ悲劇というコトで括られるけれど、ホントは違う。
なるほどジジイに瞬時になるけれど、オリジナルの「浦島太郎」はその後がある。
徒然に今日はそのことを…。



オリジナルでは、玉手箱の正体が明かされる。
それは竜宮にて太郎が乙姫と生活したさいの"地上時間"を吸引凝縮したもので、竜宮では3年のことだけど、地上では700年が経過していると、そう明かされる。
「たたみ入れ」という1語でそれは要約される。
その時間ギャップを乙姫さん(亀の化身ね。オリジナルでは女人(にょうぼう)とのみ記されて名はない。ここでは便宜上、乙姫を使う)が、玉手箱の中に、
「たたみ入れ」
て、いわば太郎の延命を図っていたワケなのだ。


※ 室町初期の、現存で最古の「浦島太郎物語」の挿画。京都・宇良神社蔵。


オリジナルをちゃんと紐解くと、太郎が地上世界に復帰したかったワケじゃ〜なかったコトが判る。
父母らの眼前から急に姿を消したゆえ、会って詫び、アイサツしたら、30日後、およそひとつき後にはまた竜宮に戻る気でいる。
いわば夏休みの故郷帰省くらいな位置づけだった。
けっして、乙姫との別れを決意したワケではない。
ただしかし、乙姫としては太郎と一緒にいたいから1日とても別れるのが辛い。それでこの里帰りの申し出をとても悲しんだ。
そこで彼女は、

日数(ひかず)経て重ねし夜半の旅衣(たびころも)たち 別れつついつかきて見ん


と、太郎宛に大仰かつ難解な歌を詠む。
何度も衣を重ね、すなわち肌を重ねた夜を過ごしてきたのに、別れてしまえば次ぎはいつ会えるのか? てなニュアンスだろう。
しかしまた一方で、かつて夜半に脱がされた衣らをまたいつか「きてみん」、"着たい"、すなわち、太郎に向けた性的暗示としての"誘惑"とも、取れなくもない。
そういうふ〜に申して、太郎の帰省を思いとどまらせようとしたと… 取れないコトもない。


対して、太郎の返歌。

別れ行く上(うわ)の空なる唐衣(からごろも)契り深くはまたもきて見ん


と、優雅な詩歌体でもって心の縁をみせる。
帰省の気分が先にたって心が今は故郷に向いちゃいるけど、なんべんもエッチしたんだもん、帰って来たらまたシヨ〜よ… てなニュアンスだろう。
「衣」から連想し、「たち」「きて」と綴って「裁ち」と「立ち」、「着て」と「来て」をかけるなど、実にまったく凄いワザありの文の応酬。
そして太郎の歌の末尾にはハッキリ、「またもきて見ん」と再会を約束する心情がのせてある。
乙姫の歌も、「重ねし夜半の旅衣」の「たびごろも」は、"重ねし"にさらに重ねてかけた、"たびたび衣を…"との意味合いの強調だ。
両者の末尾の「きて見ん」が過激にして華麗。
こんな重層的コトバのかけあいは… 今はもうまったくない。というか、こういう風に日本語をボクらは使えない。
日本語は退化が甚だしく、ボクらはその退化の先端にいる。
かつて石原慎太郎は「ノーといえない日本人」と逆説な自虐史観を繰り出したけど、米国的な「ノーといわねばいけない世界」のつまらなさ、乾電池のプラスとマイナスのみの世界に憧れたようなその主張こそが日本と日本語をダメな方向に運んでくような気がして仕方ない。



さてと乙姫は、なぜ、開けてはいけない玉手箱を彼に手渡したか?


それは、上記の通り、太郎の生命サイクルを調整するボックスなのだから、太郎と一緒でならなきゃいけない。
餞別ではない。イジワルで渡したワケでもない。
竜宮は地上とは違うワケで、そこの生活者となった以上は、太郎の常にそばにあるべきなモノ、彼は知らずとも太郎にはもはや必需の装置が玉手箱なのだ。
オリジナルの竜宮城は海の底ではなく、場所不明な島として描かれるが、硬いゴムと柔らかなそれとでは伸縮が違うように、太郎のかつての居場所と竜宮では時間の伸び幅がま〜るで違うという次第。
だから彼に手渡したのは当然なのだ。
宇宙飛行士が背中に背負う生命装置と同じようなモノと解釈しよう。
それをこじ開けちゃ〜月面の宇宙飛行士とて窒息する… 酸素が漏れて一大事という次第。


しかし、乙姫はミスった。
彼に生じる心理変化を見誤った。
太郎に、竜宮での時間と地上時間で誤差が生じているのを帰省前に話しておくべきだった。
それがなかったゆえ、太郎は驚愕する。ショックを受ける。
行方不明になって親不幸した太郎なる700年前の自分の墓があり、さらには、父母もなければ親族もいない700年後の世界という現実に押しつぶされ、まさに世をはかなんで… 玉手箱をあけてしまう。
突然の悲しみにいささか我を忘れての、それは緩慢な自殺的行為で、あったろう。
(むろん、彼は玉手箱がなんであるかを知らないけれども)
姫と太郎の、チョットしたボタンの掛け違いがこれをもたらした。
英国の大作家はロミオとジュリエットにこのボタンの掛け違いを演じさせて読者の感涙を誘ったけど、「浦島太郎」の作者は無名ながら… それに優る物語をはるか昔に書き上げてた…。
これは我ら日本の人が世界に誇っていいコトなのだけど、ど〜も、そうなってないのが寂しいかぎり。


で、問題というか物語の真の核心はその後だ。
ヨボヨボ爺さんに変じた太郎は、実はそのすぐ後に、第2段階の変身をとげるんだ。
えっ? 知らなかった?
この展開はシェークスピアも描けない。



彼は、鶴になるんだ。
鶴の変身といえば何だか女性的な恩返しが想起されるけど、変身第1号は実はこの太郎ジジイだ。
男が鳥になるのは『日本書記』や『古事記』でのヤマトタケルが死して白鳥になるというのがイチバン最初の事例だろうけど、鶴になるというのは太郎がスタート、かつ他に類例がない。
亀が乙姫に化身したように、今度は太郎が化身した。
そして太郎は、虚空にはばたき出て蓬莱山に向かい、そこで「あひをなす」。
蓬莱の山に遊ぶ、といった意味だろう。
地上時間を吸収していたフィルターとしての玉手箱をあけたコトで、彼はジジイにいったんはなるけど、乙姫と同じ竜宮時間を存分に呼吸する身の上となったワケでもある。



やがてそこへ、乙姫に変じていた亀が元の亀の姿でやってくる。
オリジナルでは、
「亀は甲に三せきのいわゐをそなへ…」
とある。
ここの解釈は難しく、研究者間でも意見が多々分かれるようじゃあるけれど、ボクが解するには… これは竜宮から蓬莱山に泳いで向かった乙姫の時間ではないかと思う。
要はその渡航に300年くらいかかったといったニュアンス。なんせ亀だからね、長距離移動にゃ時間がかかる。
300年の遊泳には、太郎に会える期待が充満している。ナンギしつつ泳ぎ続ける亀。それが甲羅に3条の年輪的かつ苦難の痕跡となっているという風にとる。
「いわゐ 」を" 祝い"と解釈する。苦難にめげず泳ぎ続けた期待を"祝い"にかけたと解釈する。
苔むす程の一心、だ。
これは、そこを伝えたいフレーズだと解く。


ともあれ、2人は蓬莱山で再会し、ここに大団円が結ばれる。


すでにこの時、亀は万代(よろづよ)の年齢に達してる。
太郎であった鶴も早や700年を越えて生きてるワケで、ここにその300年を加算すると、
「鶴は千年・亀万年…」
の、めでたきコト限りなしの象徴としての古事成句、カップルが新生する。
現在のCG映画で表現するなら、カップルの背景がカ〜ッと明るくなり、東宝映画のロゴの背景がごとく、数多の明るい色彩が放射されるという図式。古くは女性マンガに見られるクライマックスでの桜やらバラの花の乱舞。
ま〜、そんな感じ。
やがて鶴と亀の長寿カップルは神になり、夫婦明神となって、以後、
衆生済度し給へり」
すべての生き物を救って悟りの世界へと導く役を担うんだ。


以上が、ホントの「浦島太郎」。
爺さんになって終わったワケでなく、仏教による救済の徒となった2人のハナシなのだ。
明神というのは、神仏が習合していた明治以前の仏教側が「日本にいらっしゃる神サンですよ」と説明した" 神さんの1つの形態"だ。神祗という。
繰り返すが、2人は仏教界に身を置いたワケなのだ。
こうして太郎と姫は数多おわする神さまの1つになって「浦島太郎」のオハナシは閉じられる。
いやはや、実に規模大きなお噺なのだった。


ボクは亀すなわち乙姫の方が年上というコトも大事なポイントかもと思ってる。
なぜならこのおハナシでは常に彼女が主導権を握って、太郎はいわば捲き込まれというか、アレよアレよでコトが展開して乙姫という器の中のお麩というか具のようでキャラクターとして精彩を欠く。
そういう人物がどうして神さんにまで昇進したかという所をホントは、かつて太宰治が、太郎が爺さんになったのを真面目に考察したように… 考えなくちゃ〜いけない……。
だけど、ここでは省く。


以上を踏まえて…、近来の「浦島太郎」のおハナシでは、なぜ、この最終章が無視されているんだろうか?
なぜ、太郎が爺さんになった所でハナシが終わるのか?



おそらく、江戸時代末期… ジワジワと神道の勢力が増してお寺の勢力が弱まり、仏教的史観が軽視されてきて、明治と共に神仏が離合させられて廃仏毀釈のような宗教テロが続発で… その辺りの風潮のままに出版社が仏教色を激減させ、
「遊び呆けてちゃイケマセンよ」
的な子供への教訓譚に方向性をいじったのじゃあるまいか。
竜宮をどことも知れない未知の島から海底のそれへと変じさせたのも、仏教的思観から神仙的永劫思観へとスリ換えたのかもしれない…。
ま〜、それはそれでイイけれども、ひとたびオリジナルに接すると、なんだか… それこそ、
「ハナシは最後まで聴きなさい」
な次第を感じないワケでもない。
余計なことをしたもんだ、と思わないでもない。



ボクが持ってる… 昭和35年刊の講談社「世界童話文学全集15 - 日本神話・日本童話集」坪田譲治・浜田廣介の訳本では、玉手箱は3層になっていて、そのイチバン上の段に鶴の羽根が入っており、2段目が白い煙。
で、3番目、イチバン下の箱に何が入ってたかというと、我が岡山の先人・坪田先生は、
「中にはかがみがはいっていました。かがみを見ると、自分がすっかりおじいさんになったことがわかりました」
と進め、アッケにとられてるうち、煙でいったんは舞い上がった羽根が… 太郎の背にくっついて彼を鶴に変えたと… 脚色し、
「つるとかめとが、まいをまうという伊勢おんどは、このお話からおこったものだそうです」
と創作を結んでる。
ほほ〜。
なるほど、そうやって昔々のお噺は、色が加えられたり、色を抜かれたりして、変化していくもんなのだね。
それでボクは…、毎夏の終戦記念の辺りでの閣僚らの靖国参拝を思う。明治の日露戦争後に新造のこの神社に、中曽根以後、あらたな都合良きな物語を付加しようとするその方々の思惑を訝しむ。



御伽草子』に関しては以前にも書いてるんで参考までに。

一寸法師

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ふじのひとあな 〜近い闇・遠い声〜
これは「吾妻鏡」からですが…