ロビンソン・クルーソー その2

ダニエル・デフォーは奇っ怪だ。
60歳チョイ手前で、『ロビンソン・クルーソー』を出版。
まだ小説という形が完全に定着していない時代だったとはいえ、本の表紙にもどこにもデフォーの名はなく、"ロビンソン・クルーソーの記述"となってるだけだから、ながい間、実話と信じられていたりした。
けども実体はデフォーの創作。17世紀当時の実際の漂流談を下敷きにしたらしきじゃあるけど、島で生活したこともない彼の想像力のはばたきがリアルで深い。
伊集院版でもチャンと描写されてるけど、誤って母ヤギを射殺したロビンソンは、死骸に取りついて離れない子ヤギを憐れみ、いったんは自分の"住居"に連れていく。
飼おうと思う。
けども、すぐに思い直し、子ヤギの命を絶つ。
餌をあたえてもまったく食べず、だからといって放してやれば、母ヤギ喪失のこの子はスグに他の獣の餌食になる… ならば我が手で殺し、我が食べ物とする。
このリアリティでもって全篇が縫われる。



リアリズムは彼が政治の世界にいたせいか?
ちょうどスコットランドイングランドが合体し、グレートブリテンなる現代の英国が出来上がった頃だ。
その併合の影の部分で彼は、末端でなくかなり上層の担い手として、時にスコットランド側のスパイであったり、同時にイングランド側のスパイであったりという2重スパイ的政治生活を送っていたらしい。
スパイといっても007のごとく銃を持っての大活躍… なんて〜のではなく、相手方の政治家に影響をあたえるべくなロビー活動が、おそらく真相に近いのだろうけど、もはや詳細はわからない。
しかし、また同時に彼は政治風刺の論評を自身が起こした雑誌に書いては、その辛辣ゆえに投獄されたりもする。それも何度も。
権力の内部にいつつ、その権力を嘲笑する。
そこら辺りのバランスもわからない。



60歳になる直前、彼は『ロビンソン・クルーソー』を書いてベストセラーにし、政界から距離を置いて、さらに立て続けに何本も新作も出してペン1本での作家生活を謳歌する。妻子ともども悠々自適な生活をおくりだす。
が、しかし… そうやって大成功したにも関わらず、ある日突然、妻子を置きっぱなしで家出する。
行方不明になる。
ロンドンの小さなアパートでこっそり生活し、あげく、そこでただ1人で死んでった…。
まったく謎だらけ。
ま〜、それゆえ、また逆にロビンソン・クルーソーの孤独が作家デフォーに重なるんだけど、それだけで括れない不可思議な起伏が、この17世紀の小説家にはある。
家族という複数形単位の魅惑よりも、単数ただ1人の孤独こそに魔性な魅惑をおぼえ、かつ、自身の肯定と否定が交互に顕れ、その摩擦熱でまた逆に個体でなく集合体としての人間を発光させているような振幅感をおぼえないワケでもない。




で、『ロビンソン・クルーソー』… 一読して気づいたのは、ズブ濡れで孤島にたどりついたロビンソンが、火には苦労しないこと。
トム・ハンクス主演の映画のように、現代のボクらはまずそこで慌て、つまづいてナンギするはずなんだけど、マッチもライターもない17世紀の人間は逆に火をおこす方法というのは、ごくあたりまえの生活の基本なのだった…。
だから、わざわざ書くまでもなかったのね。
母親をモデルにアンデルセンがマッチ売りの少女を街頭に立たせたのは、デフォーのおよそ100年後。その辺りからジョジョに人は自力で火を起こす行為方法を忘れていって、今に至ってるワケだ。
そこに気づかされ、17世紀人間の方がどうかすると頼もしいかも… と思ったりさせられた。
屠ったヤギであれ鳥であれ、すぐに解体も出来る。
海ガメのタマゴはカラごと食べることも出来る。
やはり逞しい。



大変に親近できるのは、器がないこと。茶碗も鍋もないことの苦労。
それゆえ、湯をわかす手段がないんだ。
それで彼は陶芸をはじめる。知識のないまま最初は土を捏ねて日干しさせ、出来たそれに野生の葡萄を収納する。
でも、これじゃ〜ダメとすぐわかる。
葡萄のお汁がウツワの底を溶かしてしまい、役だたない。
「ぁあ、も〜〜」
と嘆いてもシカタない。
けどやがて、偶然に火に投げ込んだ日干しのかけらが赤くやけ、硬いものになってるのに気づいて、「あっ」と察知し、以後、焼き物にめざめる。
粘土質な土を探し、幾つも鍋や椀や壺を作っちゃ悦にいる… 孤島の陶芸家っぷりが随分愉しい。
性質の違う土が偶然の釉薬となって土器が光沢をはなったりすると、その"作品"を誰かに見せたいと思うあたり、とても可笑しい。
ともあれ、土鍋を作れたんで、火で焼くなり炙るなりでしかなかった調理の幅が劇的に変わった。
海ガメのスープを堪能できるようなった。
作った皿を利用し、栽培した麦から、さらには大麦パンを焼くことに成功する件りなど、なるほど本作が17世紀のイギリスで、実話ドキュメンタリーとしてベストセラーになったのがうなずける。
ま〜、それほどリアルというワケなのにゃ。



筆記用具がないことに着目したのも気がきいてる。
日付けの更新を線として木に印す… サイバイバル中の日数計算は、ここに原典があったのねと納得。
『宇宙家族ロビンソン』のロボットのフライデーは、そっか… 本作でその名が出てたなぁ… そんなコトを思い出したりもした。



このただ1人の苦難生活を、当初ロビンソンは悪態ついて憤慨かつ落胆するけれど、やがて、マイナス思考からプラス思考へと変じさせていく。
陶芸に夢中になったりする辺りから変化が起きる。
ここがおそらくこの本が今も愛される理由なんだろうけど、ただポジティブになってったというワケでなく、かなり深刻な内省、葛藤もまた常にあって、そこらの読み解きもオモシロイ。
後半になって登場する食人種族のフライデーが、やがてロビンソンと言葉を交わし、次第に人を喰うのはイケナイことを学び、さらにはロビンソンの奴隷となることに生き甲斐を見いだす有り様というか人物像には、はるか後年のドイルが『四つの署名』の中に登場させたアフリカ原住民トンガが想起されもする。
凶猛な毒の吹き矢を使うトンガは、悪人ながらどこか魅惑あるスモールの忠実な従者になるじゃないか…。おそらくはドイルもまた、『ロビンソン・クルーソー』に感化されたのだろう。



※ 初版本の、ヤギの毛皮着用のロビンソンの挿絵。


しかしここまで書いてフト立ち止まるのは…、ロビンソンのネガティブがポジティブに変わるのは『聖書』があったからであって、彼はそれを拾い読むことで自身を結果、救済していくという、いわば"救いの手"がそばにあったという点だ。
さてとこちとらは仏教の国、難破したとて身辺に『聖書』はない。
仮に、浄土真宗のお経かなんかと一緒に島に流れ着いたとしても、ボクはそれを読んで自身の魂を鼓舞したり出来るかどうか… 怪しいもんだ。
なんせ現世御利益なニュアンスは仏教にないんだからね。はたして孤島での1人ぼっちで浄土の未来を希求し続けられるかどうか?
かなり難しい。


この小説は高名ゆえ映画化もまた多い。
けど、さほど観たい気にはならない。たった1人という展開上、映画よりはやはり小説の方が、"感じ"がよいよう思える。


1964年には火星版ロビンソン・クルーソーというケッタイなのが公開された。
『Robinson Crusoe On Mars』。
邦題は『火星着陸第1号』。『宝島』や『宇宙戦争』のバイロンハスキン監督のお株が急降下しちまった… ダメな映画。



リドリー・スコットの『オデッセイ』もまたロビンソン・クルーソーな物語だったね。
違いはロビンソンがほぼ27年間自分のいる場所がよく判らないままに生きたのと違い、マット・デイモン演じた火星探査クルーは置かれた立場をよく理解して、そこで生存確率を高めるべく奮闘するという、生きるための根本部分。
孤軍奮闘は同じでも、根が違う。
よってマットは神に感謝しない。
生存するがための行動いっさい、工学、力学、化学、植物学… 科学に裏打たれ、またその知識を動員してのサバイバル。神の侵入の余地がない。
だから、以前にも記したけど、最後あたりのシーン、地球に戻った彼がベンチの足元の小さい雑草を踏まず、それをジッと見詰めるところが、この映画の実は最大の見所というコトになる…。


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小さな植物への愛おしみとだけ見てはいけない。
彼の中に、その直後、科学じゃ割れない… キリスト教とか仏教とかいう固有なもんじゃなく… 何ぞの神さん的思いが去来してると取れば、この映画の点数もまた上がるんじゃなかろうか。
ただし、いささかの深読みをするなら、ロビンソンの神はゼッタイ的に外にあるけど、マット扮する人物は、そのさい、神が外でなく自分の中から生じたかもな、「鬼は外・福は内」的な転換も読めるような気がしないでもない。
これは、人は神が創ったという次第ではなく、その逆でござい… を示す微かな事例、むろん創作ながらだけど、また創作がゆえに、ボクはオモシロイとも感じたりしてる。解釈次第という点で、この映画は数多のロビンソン・クルーソー映画をかなり凌駕したものかも知れない。
ただま〜、製作費に中国の資本が大幅に入って作られた映画だから、中国ヨイショな部分がいささかハナにつくのじゃあるけど。