日本の煉瓦のスタートは?


岡山シティミュージアムに模型とけっこうな量のテキスト素材を納品。
模型工作に関しては、前回講演の続きのようなものじゃあるけど、まったく別企画。亜公園は登場せず(^_^;、あくまでニギヤカシ的な位置づけながら、そこはそれ、明治の岡山を知ってもらいたいニャ… な気分だけはモ〜リモリ。



こたびの展示企画タイトルは、
『おかやまのジーンズ産業 〜備前・備中・備後の織物文化〜』
主として、倉敷におけるジーンズ生産がメイン。
繊維産業だね。


ジーンズはともあれ、なかなか珍しいものも展示される。
弥生時代の縫い針が、ボクの模型展示の、そのお隣に展示される。
長さは1cmくらいかな〜、非常に小さい。
しかし、しっかり糸通しの穴があいているんだ。
特殊な工具なくして、その穴はあけられない。
一体、そんな過去にどうやって?
人間はモロモロの技術を伝承して発展させてはきたけども、手法の伝承が途絶えたものもある。
縫い針はその典型。
なるほど工業製品として機械でもって穴をあけるコトは今、出来る。
しかし、手作業でこの穴は作れない。
けども、弥生の時代、それを可能にした技術と職人がいたんだ…。
これぞ、必見! 
自分のワークはさておいて、この縫い針展示こそ要めかも…、だよ。


という次第はさておき…、こたびの依頼では、ボクは密かに… 明治の、繊維産業の核となる生糸製造工場の、その家屋の煉瓦に主眼を置いた。
(今回の展示模型は、明治時代の製糸工場だ。現在の県庁のまんまえ、岡山県立図書館の場所に明治の時代、岡山製糸という絹糸専門の工場があったのだよ)



明治イコール煉瓦の石畳や建物(銀座界隈)、というイメージがあるとは思うけど、そこがスタートじゃない。
国産煉瓦の最初はおそらく、砲身を鋳造するための高温に耐える反射炉だろうけど、普及のスタートという意味合いでは、明治4年から5年にかけての、富岡の製糸場の建造だろう、とボクは思いを濃くしているワケなのだ。
蒸気機関という日本史の過去にない装置が糸を作る現場に導入されるさい、当然に家屋は頑丈でなくっちゃ〜いけない。
石炭ガンガンたいて高い圧力の蒸気を産む装置なんだから、土壁や畳のお部屋じゃ、可動するや燃えちまう、崩れてしまう…。床も壁も火に耐えるもんでなくっちゃ〜いけない。


当初、煉瓦は煉石とか煉化石といわれた。
フランス人技師ブリュナさんの指導で製糸場(富岡の)から3キロほどの場所に国内初の煉瓦製造のための釜が設けられた。
初の経験、危うい技術。


なので、富岡製糸場の、世界遺産となった家屋群を仔細にみると、煉瓦造りの歴史もまた判るワケなのだ。
最初の頃のもの(繰糸場)と、やや後に造られた女工館(寄宿舎)の煉瓦は、同じ耐火煉瓦というには難があるくらい、違うもの… なのだ。
最初の煉瓦は一個一個… サイズも焼き色も違う。ムラがあるんだね。
ま〜、けど、それが結果、後に味わい深いモノということになって、郷愁の色も濃く明治浪漫なんて云われるけど、本来、それではいけないワケで、濃いオレンジ色やら薄いのやら焦げたのやら、焼きにムラがあるという事は強度にばらつきがあるという事にもなるんだ、な。



ともあれ、貧乏極まりない明治の日本が必死こいて外貨を得るための生糸(絹)や木綿糸の製造と、日本の煉瓦造りの技術向上はリンクしてるという次第なのだった。

ちなみに煉瓦を積むにはセメントが必要だけど、明治のその頃は日本に製造技術がない。作れない。英国や仏蘭西から輸入するとトンデモない価格を請求される。
「富岡製糸辞典」(上毛新聞社刊)の記述を要約するなら、英国内で1袋1000円程度のものを8000〜9000円で売りつけられていたのが… 開国直後の明治の裏事情… アシモトをみられていたワケなのだ。
西洋の新規をとっても有り難がったものの、さすがにこれは買えない払えない…。なので従来の漆喰にちょいと石灰分を多く混ぜて、それで代用した。
なので、和洋折衷のこれが最初の事例かも、知れないんだ。
(高名な銀座の煉瓦街は明治6年から10年にかけて造られる)
ま〜、そのような次第をば密かに、工作した模型の煉瓦表現には活かしてるつもりなのじゃあるけど…、展示の本題ではないんで、ここにこっそり書いておく。


『岡山の歴史と文化 /  おかやまのジーンズ産業〜備前・備中・備後の織物文化〜』
岡山シティミュージアム 5階常設展示室
期間 10月22日(土)- 11月27日(日) 月曜は休館