芋煮会

馴染んだ顔ぶれでの白昼。
京橋(岡山市の)界隈の河川敷にての『芋煮会』。
安穏に浸れ、心躍る。



アウトドアで呑んだり食べたりの饗宴を、かつては「野掛け」といった。
そうやって単語1つが与えられている辺りに、お楽しみの度の深さが感じられる。
「遊山」といった単語も産まれる。
戦国時代になって、茶をたしなむようになって、「野点(のだて)」が出てくる。
しかしこれは所作に重点がおかれ、そこばかりが後世に喧伝されてしまって、肝心なお茶の味や野のことは、あんまり伝わらない。



幸いかな、芋煮会に所作は求められない。
喜多村流の芋煮とか、田村流の芋煮会といった枠組みがナイのがよろしい。
ま〜、あればあったで、それはそれでまた、"愉しめる"のかも知れない。
おイモ1つを箸に取って口に運ぶ動作でもって、人が値踏みされるような事態となると… そこに醍醐味をおぼえる人も出てこよう。
笑われまいと… お稽古として"芋煮教室"に通い、研鑽つんで、人前で恥ずかしくない作法を身につけて、きたる会で腕前のほどを見せようという野蛮が起きたりしたら、きっと、オモシロイ。


江戸時代には、大名クラスの者が遊びとして少数の部下を連れ、自領の野山を馬で駆け、そのさい遠出となるんで昼食(ちゅうじき)の弁当を持って出た。
これは「野駆け」といった。



掛けるものから駆けるものにと、ちょっと速度と距離が加わった。
そのさなかの殿様とサンマの遭遇談が「目黒の秋刀魚」だけど、焼きたてがいかにも旨そうで、2本3本と食べてしまったお殿さんの気分がよくよく伝わる。
芋煮会にも、こういう1篇があればと密かに思う。
出来れば… その噺は1人鍋がいい。誰もいない場所でという条件つき。


野点は所作に重点が置かれるというコトは、これは見られるコトを意識してのものだから、なるほど確かにそこには覚悟というものが介在する。
芋煮会に… 覚悟はいらない。気さくなもんだ、イモの前では皆さん平等。


しかし、終えて気づいた。
肝心の芋煮の写真を撮ってない…。
芋煮そのものはカラーとしてさほど醍醐味あるものじゃ〜ない。いわば秋の山野の土の色。
なのでま〜、換わりというワケじゃないけど、MOMOちゃん差し入れ自作の一品をば。
これは華やぎ。
"紅葉"と名付けようか。