利休 -1

今は、野上弥生子と書くけど、彼女が活きてらっしゃった頃は、彌生子と書いた。
ノガミ・ヤエコ。
『秀吉と利休』が出版されたのが1964年。彼女79歳の時。



それから25年経った1989年に『利休』という映画が撮られる。
監督は勅使河原浩。その原作が野上の『秀吉と利休』。
初見では、なんだか妙に人物のアップが多いなと訝しむ。劇場スクリーンを前提にした作品ながら、ま〜るでテレビジョン的なアップが多用されるから… 変だなァと首をかしげた。
けど、次第に、アップに意味ありと判ってくる。



三国連太郎演じる利休は寡黙。
その言葉少ない彼の心の動きを、この映画ではアップで見せる。
かすかな眼の動き、頬の動き、唇、額… そこに心情を被せ見せる。
山崎努演じる秀吉も然り。
この秀吉は多弁。けども猜疑がすぐに顔に出る。呵々と大笑した後に豹変が起きる。優しい言葉のすぐ後に辛辣が沸きあがる。
そこの絶妙をアップで見せてくれる。
絶妙を演じられる役者たちゆえに出来たアップ・シーン。



3日かけて4回、この映画を観て、途中から、野上の原作を読んでみる。
ボクは"女流作家"に関してはいささか苦手でさほど読んでもいないけど、本作は別格だった。精緻と濃さにページをめくるごと驚いた。
彼女はこの作品に数年をかけたようだが、とんでないエネルギーが必要だったろうと啞然とさせられ、また同時に屈強で透明な意思に感服した。


勅使河原がなぜにアップを活用したのかも、原作に接して初めて了解した。
実に微細な心の動きを、野上彌生子は丹念精緻に書き起こし、当然にそれゆえ本文は長くなる。
けども、そこを汲んでしまえば、この大作は澄明なお水のようにス〜ッと体内に浸透してくるんで、苦でない。ただも〜その筆致に酔うのみ。
彼女のペン先は揺らがない。


ボクはよく「見事だ」と形容動詞を使いたがるけど、この映画に小説、まさに"見事"な昇華と凝固。
映画は、利休の妻に三田佳子。秀吉の妻おね(ねね)は岸田今日子。お茶々が山口小夜子。この3女性の描き方も見事。また3女優はそれぞれの役にピタリはまり、持ち味も充分。
お歯黒で歯が真っ黒なのも良い。




組み立て式の、あの何から何まで金ピカピカな茶室を宮中に持ち込み、天皇に茶を点てるシーンでは、山崎努の秀吉もお歯黒になって、その口の黒く暗い暗渠も… おぞましい。天皇を前に手が震え、舞い上がっている秀吉の小心と大胆が混ざった描写が何ともリアルで感じ入る。



映画は映画。原作は原作。両者を合致させることは出来ないけれど、両者とも、素晴らしい… としか云いようがない。


その同じ年、1989年にはもう1本、利休映画が撮られてる。
『本覚坊遺文 千利休
監督は熊井啓。原作は井上靖




主人公たる本覚坊に奥田英二。利休は三船俊郎。有楽斉に萬屋錦之助。秀吉に芦田伸介。さらに古田織部加藤剛。そして、利休に大きく影響をあたえたであろう山上宗二に上条恒彦。
こちらはまったく女性が出てこない。1人として出てこない。
利休亡き後、単身ひっそりと彼を弔っている本覚坊の覚悟のほどと、そこに生じる幻想めいた追想がこの映画の要め。
京都郊外の雪深い山中の庵に1人住まう本覚坊は精霊化した利休と対話する…。その本覚坊の言葉から、やがて、利休が賜死に至った謎が解け見えてくる。
そ〜、この作品はファンタジーといっていい。
しかしファタジーといってしまうと、かのトム・クルーズの『ラスト・サムライ』同様、身もフタもない。そこの絶妙が素晴らしい。



三船演じる利休は、三国演じる利休とは違い、甲殻な頑丈極まった1つの"思想"化された存在。なので一見、三船の演技は硬く見える。大仰で、悪くいえばヘタなダイコン役者に映ったりもする。三国のそれが不安におののいたり葛藤したりのいかにも人間であるのを前面に出しているがゆえ、余計にその対比としてベタな感をおぼえてしまう。
けども、それは見立て違い。
この物語の中、没して27年が経った利休は、さっき書いた通り、本覚坊の中の理想像なのだから、そこを硬度高きな人物として三船は演技したと思えるし、また熊井もそう演出したろうと思える。



この2つの映画はまるで違うものだけど、甲乙つけがたい。あわせ鏡のような感がなくもない。
ただ、今はもう多数の女性が通って"お稽古ごと"に堕してしまった「茶道」の、そのもっとも華麗かつ過激かつ真摯な時代での「茶道とは?」の核心に迫ろうとした点で2作品はピタリ一致する。
活き方としての美学。自身を抽象化しようとする遠心と求心。それを押し通す死もいとわない覚悟。その道具立てとしての茶道。そこに保守は皆無で… 常に革新があって変革が常態であった茶道。
だからこそ、今の"お稽古ごと"が空虚に映る…。


たまさか時期同じくに、有吉玉青の『お茶席の冒険』なる文庫本を読んだけど、そのつまらなさったら…。
彼女のいう冒険の底浅きに呆れ、嗤い、グッタリさせられた。
けども一方でボクは俄然、茶道に、興をおぼえる。
有吉がごとく上手なお点前を見せたい演じたいとかいうのでなく、根ッコの精神部分での有りように惹かれる。
けったいな云い方をすると、かのノウチラス号の船内に、2畳の庵をこさえてもヨイなと思ったりする。
ネモが覚悟の人であったように、その居住空間の中に"哲学空間"、"覚悟の空間"としての庵を1つ設けてもイイんじゃ〜ないかと。



『本覚坊遺文 千利休』で本覚坊が訪ね寄った織田有楽斉の庵「如庵」のシーンは現存している実物でロケしたとしか思えないけど、でもあれは確か国宝だから、映画が撮れるのかなぁ…、とか想像をめぐらせつつ、そういう佇まいの中に自分を置いてみたいとも、願望する。
ただそこで、いささか気になるのは… 最近、茶道関連の本を何冊か読んでみるものの、茶の味についての言及が何故か、ないのだった。
庵や器や花のことならば記述はも〜山ほどあるのに、肝心なお茶の味のことを記したものがないのが妙なのだった。


そんな中、唯一、光ってたのが海道龍一郎の小説集『室町耽美抄 花鏡』の中の一篇、「詫茶」。
侘茶でなく詫茶と題されたそれは珠光が茶人になる過程を、一休和尚とその愛人というか"妻"の盲目の女性・森従者との三角関係の中に描いた力作だけども、この一篇でのみ、茶の滋味のことが克明に記述され、いささか眼からウロコを味わえ、濃い緑茶(仕上茶)をば、
「一服したい」
とも思ってしまうのだった。



四畳半というスペースは、珠光に起源がある。茶飲みという行為をあえて限定した空間に置く… ゆえの四畳半。
それは額縁なワケなのだ。
後に利休がそれを二畳まで縮めてみせたけど、茶と空間を合致させた珠光もまた、見事にしてすごい、としか云いようがない。
いまだこの人を描いた映画はないようだから… ナイものねだりで、観てみたいもんだ。


で、さてと…。
映画を、勅使河原の『利休』をとるか、熊井の『本覚坊遺文 千利休』をとるか、どちらかのみ選べというヤッカイなことになれば、ボクは井上靖原作で熊井啓が撮った『本覚坊遺文 千利休』をとるだろう。
けども、では… 原作本のどっちを無人島に持ってくか? と問われたら、ボクはマチガイなく、野上彌生子の『秀吉と利休』を手にするだろう。
この違いこそが、映画と小説の違いなんだ。
けどま〜、そこの消息はまだうまく云い顕せない。
ベンキョ〜不足がはなはだしい。