利休 -3 ~後楽園と三猿斉~

先週より… 与えられた資料を元手に模型化のための作図にはげむ。
充分な資料でない。部分はあっても全体が見えない。なので格闘中といっても、いい。
とりいそぎで今週末には、"初稿"を見せなきゃいけない。
かなりナンギしてるけど、それはそれ、これはこれ…、利休バナシの3回目。


後楽園(岡山市)を散策すれば、点在する庵が否応もなく眼にとまる。
茶に興味をだいて、そのマナコであらためて眺めるに、茶会が可能なその数、8庵。
今は一見はお土産SHOPにしか見えたりしない家屋もあるけど、8つ、ですぞ…。
こりゃ、オドロイタ。
結論をいえば、何のことはない、かつて後楽園は殿様のためのどでかい… 茶の湯がための借景空間なのだった。
しかし、そのことが今、ちゃんと伝わっているかといえば、そ〜でない。
でしょ?


近年の調査でやっと、殿様の舟が停泊する場所が特定され、まだ整備中ながら、かつての姿がちょっと想像しやすくなった。
岡山城からそこへ、舟で殿様はやって来る。むろん、ほんの僅かな距離。
船着き場の割りと近くに、1つ、書院と茶室を兼ねたような庵がある。



明治になって、それは茂松庵(もしょうあん)と名付けられたが、江戸時代には花葉軒(かようけん)との名だったそうな。
夏場は巨大なハスの葉が茂る池のすぐそばだ。
歴代の池田の殿様は江戸屋敷から岡山に帰郷したら、城から舟で後楽園に出向いて、ほぼ必ずや、この庵でくつろいだろう。
おくつろぎの居間的空間としては、現在の入口近く、鶴鳴舘(かくめいかん)隣りの延養亭があるけれど、正座でなくアグラでもって、くつろげそうなのは、花葉軒(茂松庵)だったに違いない… とボクは思う。
なぜなら、この庵は今も昔も廻りを背の高い樹木で覆われて、すぐそばのハス池すら見えず、要はヒトメを気にせず過ごせる場所にあるワケなのだ。


他の庵、たとえば寒翠細響軒(かんすいさいきょうけん)や茶畑を一望出来る新殿などは、茶席としていわば1対1の空間ゆえ、いささか重い。
また、城にイチバン近い廉池軒(れんちけん)は、"殿さんがいらっしゃる"と即わかるような、いわば公けな建物としての性質が濃かったよう、思える。
その点でこの花葉軒は、いわば"個人"が引き籠もり可能な空間でもあって、ちょいと殿様にとっては気さくな空間だったような気が…、するワケなのだ。



いささかの起伏と背の高い樹木林立で、すぐそばのこの銀杏の落葉も庵からは、見えない。


茶の湯は、他者とのコミュニケーション・ツールながら、また一方でごく個人的な己のがためのものでもあった。
自ら湯をわかし、茶を点て、密やかに自身が飲み干すということも、そこなら出来たろう。
ま〜、以上は勝手な想像だけど、岡山県運営の後楽園ホームページでは、茶の湯の言及がまったくないのは、これはどうしたこっ茶、なのだ。
これはイケナイ。
後楽園を「藩主のやすらぎの場の創出」と記すならば、その最前衛たる茶の湯を紹介しなきゃ〜、ダメでしょうに。
また、それを記述することではじめて、園内の大きな茶畑の意味と意義が出てこようというもんだ。



岡山は、意外や… 茶の湯と関係が深い。
まずは禅宗栄西
栄西は、エイサイでなく、ヨウサイと読むのが正しいらしい…。
著作『喫茶養生記』でもって、我が国に茶を定着させたこの人の生まれは、今の吉備中央町界隈だ。
14歳までいたという。
それから京都に出て、宋に2度にわたって出向いたり、ある時は鎌倉、またあるときは九州へと、なにやら勢力的に動き廻った元気の人。
2度の中国行きで、いわば本場の茶味を彼は体得したと思える。
茶葉をどうやって保存するか、抹茶をどうやって造るかという基本レシピが『喫茶養生記』だ。
(本の半分は、桑の効用や用法。茶もクスリとしての効能が強調される)
ともあれ彼がわざわざ宋から茶の種だか苗を持ち帰り、普及に努めてくれたのは、ありがたい。
栄西以前にもちろん飲茶はあったけど、それは貴族階級でのハナシで、栄西がそこの間口を大きくしたといったが正しい。
吉備中央町の山々にも天然モノの近似な茶樹もあったかもしれないが、少年にはそれは判らなかったろう。けども後に中国で彼は茶に接し、
「似たようなのを見たコトあるんじゃ〜」
いわば再発見をしたとも思うと、親しみがわく。
彼が中国から持ち帰った種だか苗は3カ所に植えられたけど、よく根付き、よく育ったのが、今や茶の代名詞ともなった、宇治だ。



さてと、利休。
大徳寺の三門・金毛閣に彼の等身大の木造が置かれ、これが賜死の元凶だったという説は今も語り伝えられる。
しかしそれは利休が造ったワケでなく、当時の大徳寺の高僧の指示で造られたものだから、利休1人が責められたのは… どうも合点がいかない。賜死の原因として、やや難があるような気がしないではない。
ともあれ、利休の処刑と共に像は見せしめに縛られ、引き回され、刑場でもって鉈で叩き壊されたというのは本当のようだ。
(一条戻橋近隣で最後には燃やされた)
しか〜し、現在、金毛閣楼上には大きな厨子があって、その中に利休像がチャ〜ンと置かれ、とても大事にされている。
はて?
さて!
実は、この像は岡山にあったんだ。



伊木忠澄(イギタダズミ)という人がいた。
幕末。岡山藩池田家の最後の筆頭家老。
幕末の動乱時、池田家をどちらの陣営につけるかなどなど苦心腐心もしたろうが、この人は大変な趣味人であったようで、そのシュミが茶の湯なのだ。
元のお屋敷の場所には今は県立図書館や幼稚園が建っているけど、その一帯が伊木の屋敷だった。
今も後楽園の外側にある荒手茶寮を造ったのも、この人。
茶寮というくらいだ… 茶を好んだ。
好んだなどと甘いコトをいっちゃ〜いけない。
廃藩置県で池田家が機能しなくなると、当然に家老職もなくなる。
職がないというコトは収入が途絶えるというコトだ。
それでしかたない、日々をしのぐために家財を売ろうとした。
古道具屋が家老宅で仰天した。
な〜んと、茶釜だけで500点を越えた。茶器にいたっては名器が1000を越えるというアンバイ。
しかも、値踏みされるや、売るのを惜しみ、
「ぁ、それはダメ、これもダメ」
売るといいつつ、手放すのを拒んだ。



今、後楽園内にある瀟洒な庵・茶祖堂は、元はその伊木屋敷に彼が設えたもので、名も「利休庵」だった。
いわばこの人は、利休オタクなのだった。(上写真のみ後楽園のHPより)


土をひねって作陶もした。
備前焼ではなく、当時廃れていた虫明焼きに美を見いだし、その復興に尽力した。
号を、三猿斉(さんえんさい)と云った。
"見ざる聞かざる言わざる"を下敷きにしたかどうかはわからない。
むしろ、滑稽味を楽しむ人物のような気がする。
黒船来航で大江戸防衛の令が出たさい、彼は2000人(1000人かも)の岡山藩士を率いて上京したが、その道中で上級の家臣らに茶をふるまった。
けども、これが前代未聞なケッタイな茶会だった。
一同が着座するや床に猥褻な錦絵を置いた。点茶というより、眼がテン… というアンバイだ。
でもって、茶事をすますと、今度はナベチョロと名付けた猪の鍋を出した。
半裸ないし全裸の女体画をみせた上に肉食だ… こんなメチャな茶事は、ない。
けども米国と戦争するかも知れない緊張で殺伐とした藩士たちは、それでずいぶんに救われたかも知れない… のだ。
和むというより、呆れて、黒船の恐怖をしばし忘れるというアンバイだったろうが、こんな珍妙な演出は、普通、出来ない。


ある意味、伊木忠澄は利休の中の"茶道の革新"を読み取っていた人であったろう。むろん、利休ならば、そんな野蛮で野卑はしないだろうけども。
ともあれ、廃藩置県後の彼はといえば、職につかず、家屋敷や家財を次第次第にと売り払いつつ、シュミの茶湯にいきた。
茶に埋没し、浪費しきった。
荒手茶寮も売った。
幸いかなこれは今は岡山最古の懐石料亭として現存し、伊木が集めた調度品の数々(かなりは空襲で焼けた)ようだけども直かに見られる。



そして彼は最後に、奉還町界隈に居を移し、家屋敷もお金も何もかもなくした末、かねて秘蔵の等身大利休像を自分の死後に大徳寺に奉納してくれと、奥方に申し出る。
数百年前に破棄された利休木造を模して造られたレプリカ(製作年や作者は不明)だ。
明治19年に彼が69才でなくなったさい、奥方はそれに従った。
まだ鉄道もないのだから、荷馬車で運んだろう。経費も尋常でなかったろう。
今、金毛閣に大事に安置されているのが、それなんだよ。
これはアンガイ、知られてない。



あえて云うけど、後楽園を管理している岡山県は、そういうコトもまた、アピールしてもいいのじゃなかろうか。
茶祖堂の"解説看板"に、伊木の名すらないのは失礼というもんだ。
(もう1つ、これは主観だけど、移築した茶祖堂の"腰掛待合"は茶室にあまりに近いよう見えてしかたない。伊木家にあった頃は、茶室とそれはもっと離れていて、よりたくさんの飛び石で結ばれた構造ではなかったかしら? 移築時にコンパクトにまとめちゃって、いわゆる"茶室と路地"の関連が崩れているような感じがしてしかたない)
ともあれ、伊木のことや、園内の茶畑のこと、かつて殿様がどう活用していたか… などなど、お江戸時代の茶の湯の存在を知らせずでは、まったく情報不足、というより不適切だっチャッ。
でしょ?



ときおり近隣の百姓身分な者らにも園内を見学させていた、というような"民主的な良い殿様"を、ことさらに演出しなくていい。
築園当初は城の防御空間だったかもしれないけど、繰り返すが、後楽園は、やがて、代々の、殿様の殿様のための殿様による茶の湯行為をおこなうがための借景空間になって、そう機能していたんだ。
当然に、茶畑は殿様専用の茶葉を採る。いわば池田ブランドの最上級。
江戸屋敷に戻るさいには、徳川家への献上品として、茶葉は壺に入れられ大事に運ばれもしたろう。
かつて茶湯はそう機能していたんだ…。
後楽園は、そこをこそ伝えるべくなのが、大事なポイントとボクは思う。


ただま〜、1つ、県を評価したいのは、園内ほとんどの庵が、お金を払えば茶席として市民が活用できるところだね。あんがい料金も安い。
もちろん、お道具一式はこっちで持ち込まなきゃいけないし、お湯はポッドでというコトらしいけどね。ま〜、そこはしかたない。炭で火をおこすというワケにはいかない文化財たちゆえ。