ミュージアムと模型


こたび土曜の講演は、過去最高の集客で、席の半分ほどがガラ〜ンと空いているのだった。
だからホントは最低と書かなきゃいけないのだけど、話した内容は最高部類と自負するから、ま〜、これはこれでと、あえて"最高"と称しておきたい。



内容の半分以上は、60年代、いわゆるスペースエイジ(宇宙時代)の頃の科学技術についてだ。
いみじくも米国大統領が入れ替わり、ケネディ大使が離日し、さらには講演4日前、月に出向いた最後の宇宙飛行士ユージン・サーナンが死去するというタイミングだった。
マーキュリー計画アポロ計画での宇宙飛行士の安全策はどのようなものだったかを、それを模型でどう表現したかといったコトを中心に話をしたのだけども、その発火点こそが、離日したケネディ大使のパパだった故ケネディ大統領の例の、
「私達は60年代の終わりまでに月に行く!」
なのだから、妙なタイミングだと密かに意識して挑みもしたワケなのだ。



しかし、フタを開けるまえ、まずスタッフ2名がインフルエンザAで倒れた。
正しくいえば当日のヘルプ役だった館の職員もインフルでダウン。なんと欠員3名だ。
なので当初予定の模型の細部を見せるためのライブ映像(カメラによるスクリーン灯影)担当がいなくなって、急遽にiPadでの事前仕込みスチール投影に換えるという、慌ただしいことになってもいた。
どうも… 1月大寒の頃は体調不調が多いらしい。集客の悪しきも、その辺りが原因のようでもあった。
もう1つには、"模型に特化"した講演概要が一般的には馴染み薄だったよう、思えもする。
けど、悔やむ術はない。
余談バナシの脱線も適度に混ぜて、ほぼベストは尽くせた。




作家・坪田譲治が自宅の敷地に設けていた私設図書館『びわのみ文庫』の模型も、披露した。
括りとしてはそれもまた60年代のもの。
思えば不可思議な躍動に満ちた時代だった。
いわば明日にまだ期待がもてる… 未来を夢みられる時代だった。
それからもう50年が過ぎ… たワケだけども、幸福の度合いは増したろうか?
時代が進むほどに、むしろ、混迷が深まって、未来を夢見られないコトになっていると感じる今日この頃。妙なタイミングゆえに、妙に記憶に残るだろう講演となった。



模型『びわのみ文庫』は、家屋外観を模したものと、室内全域を作り込んだ2つがある。
この家屋(ホンモノ)は別に価値ある造りだったという次第ではない。平たくいえば60年代の典型ともいえるトタン屋根に合板の壁… といった豪奢でもなんでもない、どこにでもあるようなモノだった。けども自費でもってそれを建て、以後10年あまり、およそ2千人ほどの子供たちに本(童話が中心)を貸出し、またそこを基点に若手作家を育てて「びわのみ学校」という児童雑誌を出版し続けていた彼の息吹きと気概が、そこには詰まっていたワケなのだ。
儲かるような仕事ではない。むしろ出費の方が大きかったろう。2階の1室はそのような若手が寝泊まりもしていたようだ。
彼は死去するまで同文庫を維持し続ける。
銭カネに頓着せず動じない、このような人物を好もしく思うし、今の時代にもまた、いや今だからこそ、こういう人が欲しいな〜とも思う次第。
模型に、その息吹きと気概までを注入出来ないけども、そこは務めて意識はしておきたい。そう念じつつ造って披露した模型だ。
ちなみに、室内模型のベースはイエロー。これはビワの実を連想すべく… 使ってる。



スケジュールの都合で講演そのものには間に合わなかったものの、終了後に駆けつけてくれて模型細部を炯々と見遣ってくれたS女子大のY教授には感謝申しあげる。彼女のご尽力、資料提供と励ましなくばこの模型は産まれなかった。多謝。



図書室部分-細部

びわのみ文庫』模型は、岡山シティミュージアムで来月より開始の某常設展で再披露される。