茶の本


いつものことながら、イベントが終わると軽度なエアポケットを味わう。
さらなる模型というか、製作途上で中断しているのも有るんで、気にはなるんだけど、ま〜、あと少し、ここ2〜3日はボンヤリしちゃえ… と甘誘に浸透されるまま、何本か連続でDVDで映画をば観賞したりする。
普段あんまりしないけど、テーブルに足投げだして、横柄に。
こういうお気軽な飽和が、実は好き。
怠惰をはむ… とはよくいったもんだ。



しかし、アメリカ映画ではショッチュウ、足投げだしポーズが出てくるね。
映画に限らず、たとえばオバマの写真など眺めるに、彼も執務室でテーブルに足投げだしをやってたりもする。
かつてのケネディクリントンもやってる。
ブッシュ親子やフォードもそうだ。
リベラルも保守もこれは一緒。
アメリカンな慣習なんかしら?
文化とはいうまい。




真似てみるものの、ボクの場合は5分もやると足しびれちゃう。リラックスできない…。
ま〜、かの国の方々が正座が出来ないのと御同様で、トコロ変われば足の居場所も変わるというワケだろ〜ね。


けども、怠惰時間もそ〜続かない。
S新聞社から取材の申し出。
あわてて毛繕いしてシャキッとしたところを演出… グチャラケになったテーブル廻りを片付けて、いっつもクリーンだよ… なんて顔して写真に撮られる。これにて怠惰な数日終了。ぁぁざんねん。



岡倉天心の『茶の本』を再読。
欧米人向けに英文で書かれ、ニューヨークで出版され、当時、東洋というか日本文化理解の良書と絶賛されたらしきだけど… 今も評価変わらず。
すごいね〜、この人は。
横浜の、それも外国人居留地の中にある商館(絹糸の輸出)に産まれたから、日々ガイジンと接しての幼年期。
でもって、早や6歳で近所のジェームスさんから英語を学んだというから日本語と英語を両方ナチュラルに話せるバイリンガル少年に育つ。
そんなんだから通常なら眼が欧米に向かい、西洋にカブレてしまいそうなもんだけど、彼はそうならない。日本の古きに着目し憧憬し、そこを大事にしなくっちゃ〜な意気込みと熱意の温度を高めるんだから… すごいというかオモシロイ。文明開化の鐘がなる… の明治にあってだよ。


鹿鳴館が示した通り、何でもかんでも西洋を真似、古き日本はもう要らないと政府の要人ら多くが西洋カブレをおこしてるさなか、彼は流行りの風潮に背をむけた。
天心がいなきゃ、もっと大多数の日本の美術品(主に仏教系のもの。当時、神道がイチバンに格上げされて仏教が疎んじられたから余計に)やらやらが海外に売り飛ばされていたろうから、そこを思うだけでも… ゾッとする。


天心は書く。
大久保喬樹 訳の同書では、巻頭で、

茶にはワインのような傲慢さも、コーヒーのような自意識も、ココアのような間の抜けた幼稚さもない。

と、Tea(紅茶を含む)以外を罵倒する。
でもこれは主題じゃない。
西洋側の東洋への無理解、また逆の東洋側の西洋無理解、その格差を縮めようとの魂胆での、あえて挑戦的に煽った文章上のそれはテクニックであろう。読み手たる欧米人をまずは挑発し刺激し、次いで文化の相異を説いていく。その上で、茶を通じての文化論的東洋を克明に描いてみせる。

"茶碗の中で東西は出会う"

と、説いていく。
ま〜、見事なもんだ…。"コーヒーのような自意識"と書ける文体にも驚くけど、そう記せるだけ彼はコーヒーの味わいを知っているとも当然にとれて、ばっさり切られたコーヒーもタジタジとなるんじゃなかろうか。ココアにいたっては泣くんじゃ〜あるまいか。
ともあれページをめくれば、道教がでてくるし、禅も出てくる。その精神性の結晶というか容れ物たる茶室が出てくる。茶世界の深みに連れ込まれる。
何でもア〜メンの一神教ワールドではない別大系な世界感があることを、天心は茶湯を通して明示する。
茶道の解説本ではない。その精神の真髄を哲学したもんだ。だから濃くて深くて、かなりの透明度の真摯がどの記述にも漲る。
この数ヶ月、やや集中的に茶関連の本を読んだけど、この1書は… 抜きんでて他書とはちがう。メチャな云い方をすれば、原理主義的理論の本… と云ってもよい。
こたびの再読で、このクリスタルめいた、硬い、けども乳白な柔らかみをコートした論調を、いちだんと好もしく思いはじめてる。
第6章の「花」の記述あたりは、もはや詩篇とでも呼ぶべく澄明が挑むほどに凛々として屹立し、
「ふひゅ〜〜」
溜息をつくばかり。



この人は不思議な人で、自分の服はほぼ全て自分で縫って造ってる。デザインし縫製し、ボストン美術館の館員になった頃もそれで通してる。
自我の芯が屈強でなきゃ、そんな風体はできまい…。
また一方、ボクは天心の恋愛模様にもチョビリ興をひかれる。
あやかりたい… という次第じゃ〜〜なくって、とどのつまり、嗜好と思考の快楽曲線が螺旋にからんで上昇していくアンバイに目映さをおぼえる次第。


天心はダンコに懐古趣味の人ではない。多くの日本人が捨て去ろうとした諸々の中に大事極まりない根ッコを見いだして、それを摘むなと警鐘し、かつ大胆に、過去にとどまるな… とも論じたような感があって、今、たとえば、大統領令としてTPP永久離脱と決めた国に向けて「説得の努力を続ける」などと牧歌を申してみたり、「米国第1主義を尊重します」とのメッセージをババ抜きトランプ氏に送ったりの… 思考停止しているアベコベ総理やら、あるいは原発事業の最大手だった米GE社ですらが撤退し見切りをつけようとするその子会社をわざわざ大枚はたいて購入して、あげく大損失を出してサザエさんを困らせる東芝などなど… バカな侵略行為に耽った先の戦争遂行と同様、いったい何にしがみついているんだろうかと、訝しむことが多すぎる。
茶の本』は政治経済の話ではないけれど、文化の枝葉の先にそれは確実にあってリンクし続ける。天心の憂いの核心は、今も継続中というより、いっそヒドイことになってるんではなかろうか。


彼は西洋のパーティで大量に用立てられる花々の使用を批判し、茶室の一輪の花とを対比しつつ、花の立場でこうも書く。

花はどれも、侵略者の前に、なんの助けもなくたたずむばかりである。花たちが断末魔の叫びをあげても、私たちのかたくなな耳には届かない。花は私たちを愛し、黙って奉仕してくれるのに、その花に対して、私たちはかくも残酷なのだ。だが、いつかきっと、こうした残酷さのために、私たちはこの最良の友から見捨てられる時がくるだろう。野の花が年毎に稀になっているのに気がつかないだろうか。きっと、花の中の賢者が花たちに、人間がもっと人間的になるまではどこかへ避難しているよう命じたのだろう。

天心ならずとも、"花を活ける"の、その活けるの意味を再認識すれば、も少し呼吸しやすい世の中になるような気が、しなくはない。
他者の眼に粗末に映ろうと、さした一輪に誇りを持てとも。