冬場は夢が旬 ~ダリ~


眠ってるさなかの、夢。
冬場のそれと夏場のそれとは、なんか絶妙に違うような気がしている今日この頃。
皆さんいかがお過ごし、じゃ〜なくって、思われるかしら?

ボクの場合、どうも冬場の方がオモシロイのを見てるような感が濃い。
目覚めると同時にホボ消えはじめ、数秒後には、
「ナニ見てたっけ?」
もどかしいコト極上だけど、冬の夢の方がチョットなが〜くて、ドラマチックなもののようだ。たぶん、おフトンの温かみのヌクヌクが影響してるとは思うけど、ボクの場合、なが〜いSF仕立てのドラマが多い。
紅い砂の火星の広漠とした光景の中を鉄骨とガラスで出来たスクールバスみたいなのに複数で乗って、だいぶんと先にある音楽会場に向かってる道中でのアレやコレがどんどん脱線的なハナシとして紡がれる… みたいな。
だから、あんがい… 愉しい。
そういう長編を夏に見たおぼえがない。
そう思うと、夢には旬があるのかな? とバカなことを考えもする。
「2月の夢が最高だね〜」
などと云ってみたいもんだ。
云って、得するワケもないけど。



夢を扱った本や作品は多い。
けども、他人の夢のハナシにつきあいたくはない。
けども、中には、ボルヘスのような秀逸もあるし、これは個人的ハナシだけども某BARのママの夢の中で、
「アンタと一緒に火葬されかけた…」
というような怖い実話(夢のね)もあるんで、全部を拒絶するわけでもない。
夢物語という括りだと小説も映画もいっさいがその範疇に生息するんだから、な。
夢の生息場所は広大… なんだ。



6日ほど前、某ライブハウスにてOH君がただ1曲のみ歌うというシーンを観覧後、場所換えて数時間(気づくと朝の3時だったね)ヒチャチブリに呑んで語らったさなか、ダリのことが出てきたけど、ダリという人物が紡いだ作品をどう位置づけるかで、ダリの評価とダリを観る人そのもののカタチの輪郭が判るような… 気がしないではなかった。
シュルレアリスムと夢を一直線に結ぶ気はないけども、射程範囲の近似にはあるから、以下を書く。


ピカソがいい!
マティスがいい!
というのと、ダリがいい! というのとでは、どこか、何かが、決定的な違いがあるような気がして、いけない。
そこを確信的に語りきれないのが、ま〜、ダリのダリたる由縁なんだろう。
OH君も最近どこかで作品に接したらしきだけど、ブログに書きにくいと… にがく笑ってた。
そこはとても共感だ。ダリというのは描写しがたい属性がある画家なんだから…。

ダリは、深いようで浅い。
洗練されているようで、ダサく、うさんくさい。
鋭敏なようで鈍感な直情だったりする。
都会的? い〜や、だんこ田舎っぺ〜である。

以上はボクの感想だけども、その逆も同時にヒッソリ温存する。

ダリは、浅いようで深い。
ダサイようだけど、洗練されている。
直情にみせかけ、実は多感かつ繊細である。
都市の空気を呼吸し、吐く息はメトロポリタ〜ニャである…。

それら切り口の見極めがかなり曖昧でわかりにくいのが、ダリなんだろうとも思うし、ボクが好いているポイントのような気もする。
決定的にわかっているのは、ダリが、実にマジメなヒト、時に保守的な程に勤勉なヒトということ… だろう。
彼の著作、たとえば「天才の日記」などをめくってみると、扇情な記述の根底にマジメ過ぎの硬い人物がいて、グンニャリした時計を描くヒトには思えぬところが多々あって、衝撃させられる。
たとえば––––––––––––––––––
女性の腋毛のこと。
自分のウンコのこと。
部位的観察と考察が、真摯かつ高らかで、対象に向ける視線のピュア〜な度合いはちょっと部類がない。
ピカソにもマティスにも、そこまで露骨な正直はない。
ただ、そのピュア〜を絵画でなく文字で綴ってしまったところに、ダリのほころびがあるような気もするし、また、そうでないとも… とれないでもない。文字を連ねるダリの中の、虚実の分数配布が徹底して巧妙で惑乱させられもするから余計に。



夢という括りでもって彼のシュルレアリスム画を眺めるボクの感想は、だから未だ定まらない。
定まらないけど、ただ1つ、彼の描く空の色だけは、これは別格と思って久しい。
その色合いには、夢の朦朧がない。
彼が描いたカダケス、ポルト・リガート、フィゲラス辺りの空の色は、日本や英国のそれでなく、スペインの空、それも地方の夏場のそれ… そのものに見える。
とても深く、とても濃く、とても透明。紺碧という1語じゃ括れない、ダリの絵にのみある色だ。
どうもそこに、夢が入る余地のないダリの現実があるよう思える。


ダリの実物をボクが直に見たのは、はるか昔の大学生の頃で、大阪の大丸だか三越での規模大きな展覧会だったけど、思った以上に小さなキャンバスだったそれらの中の、濃く深い青を見た刹那の、吸い込まれるようなブルー感覚ったら… なかった、なっ。
いまだ、その時に相応する感覚を味わったことがない。



※ フィゲラスのダリ美術館で昨年に開催された真夜中のイベント。その告知ポスター。チケットは数分で完売だったらしい。


なので、いまさらに気づいたんだけど、ダリという画家を彼の画法に見合わせてシュールな空間に置く必要はないのかも知れないのだ。
彼の"浅い夢"とは切り離し、彼が無自覚に切り取っていたスペインの空気(とくに空)を味わうべき作品群… なのかも知れないのだ。
空は、ある意味では無だし、無は夢とも語呂合わせ出来ちゃうし… というのは過剰だけど、ダリもまた、夏と冬では違ったタイプの夢を見てたかしら? などと思ってみるのも一興だ。
その夢の中にも、彼の"空"はあったろうかも知れないし、その青さのみは、たぶん、ドリーミーなもんじゃない真実でしかない色彩だった… ような気がするわけなのだ。
少なくともボクは、彼の多くの絵に、"夏の暑熱"を感じる。汗ばみをおぼえる。


「内乱の予感」やら「記憶の固執」やらやらのタイトルも内容も実はさほど… 自分が毎夜に浴びる夢同様に意味はなく、それはあくまで手段で、彼は一貫して自分が吸っている空気の色、わけても、空模様を描いていただけかも知れない。
そう考えると、ボクはますますダリが好きになるなぁ。
ダリは、空を、カラッポを描き、かつ、演じ続けたんだ。…と。



ダリの作品中、イチバンに好きなのがこの『パン籠』。
1945年の油彩。33×38cmと小さいながら、ダリ宇宙が詰まってる。
フェルメールの『ミルクを注ぐ女』に登場のパン籠にいわばインスパイアされたもので、多くの評価はその描写に眼が注がれるようだけど…。
けども、そのスーパーリアルな技法に感心してちゃ〜いけない、と思うのだ。
それはダリの口実。


この作品の以前1926年にも同じタイトルでパン籠を描いてるけど、それとこの作品では作家ダリの心の在りようがまったく違う… とボクはみる。
本作の画面全体2/3を占めるダークな部分こそが命。
この絵を紹介するさい、黒部分をトリミングした例が多々あって、無茶をやるなぁと呆れもする。
1枚の絵として、この黒の占める割合と配置は、絵としての構図をあえて破綻させてもいる。
いるけれど… そこが要め。
空につながるカラッポがここに置かれているワケなのだ。その暗がりをジッと眺めてると、本当にカラッポなのか… と絶えず絵の方からこっちに問い合わせてくるから、これはとても空恐ろしくもある。
プラネタリウムを体感した方なら判るだろう、明かりが落ちるや、コンクリの丸天井が突然に無限大の空虚に変じる… あの闇に吸い込まれる感覚。
その黒は、どれだけ精度があがろうが印刷では再現出来ないだろう性質の、直筆の深みだ。
ダリは空間そのもの… への畏敬をここに籠めた。



量産といってもいい程に似通う絵を描き売って拝金主義と嘲笑もされたが、またそれを逆手にとってDALIとDOLLARを組みあわせた造語まで創って自己弁護でなく、ただもうヒトをケムに巻く手法に徹したダリだけど、この『パン籠』は終生手放さなかった。
そこのところに、「天才の秘密」があるような気がしてしかたないし、また同時に、彼の、彼の中の限界もまた感じないわけでもないのだけど、すくなくとも、この絵は画家ダリをダリたらしめて永劫の香気と光輝と宇宙的意味合いでの熱気を放ってると… 2017年2月のボクは思う。
そう、この絵は、"冷暗ながら尋常でなく熱い背景放射"を感じさせてくれる、唯一のヒトの手による絵画なんだ。
と、ことダリに関しては風呂敷拡げて誇大を申すのがヨロシイようで。