本能寺の変 …の変 ~火事場泥棒~


茶の湯のことをオモシロがっている内、本能寺で足止めをくらう。
誰もが知る「本能寺の変」。
けども知らないコトもまた、多。
興味の本スジが「信長VS光秀・どうして?」に絞られ過ぎて、そこからこぼれた史実が、埋もれぎみ。


なぜ、その日、信長は京都に、本能寺にいるのか?
事件前日、彼はそこで茶会を催す。これを含め諸々な用あっての上洛、本能寺滞在。
前日はもてなしとしての会食をし、茶を点て、収集したいわゆる"名物"の数々を、九州の2人の実力者に披露していた。


神屋(貞清)宗湛(かみや そうたん - 神谷とも記す)
島井(茂勝)宗室(しまい そうしつ - 宗叱とも書く)


この2人が主客。
京都在住の複数の茶関連者も同席したろうけど、方々は宴が終われば引き出物をもらって帰れちゃう。
信長一行と九州の客人はお寺にお泊まりだ。
で、心地良さげに就眠した翌早朝に襲撃を受けて、誰もが知る"本能寺の変"となるわけだ。


会合は、おそらく、この両名から申し出があったと思われる。当時、島津家が勢力を拡大し、地域(博多)豪商だった彼らは色々おいしい既得権を奪われかねないと危惧し、信長の庇護を受けようとしたというのが通説だ。
それで茶会がセッティングされた。
信長としても、九州方面の3大豪商といわれた内の2人からのラブコールなんだから、大いに喜んで(政治的かつ経済的に)の謁見なのだった。
信長は、ここぞとばかり、収集していた茶道具を安土城から持ち込んで、彼らにそれを見せびらかし、いわば権勢を示し、
「ボクについておいでよ」
ウィンクを投げ返して歓待を示したわけ。



その翌朝早々の不意打ち。1万2千か1万3千人の兵であったらしい。
信長は、小姓を中心に側近300人以下の無防備。しかも大半は馬方衆など日常的スタッフだったから、お寺で寝るコトが出来ず、門外にいる。
平成19年の京都府の再調査で、当時の本能寺が四方は2町(およそ220m)に及び、全域に堀をめぐらせた、かなりな防御的砦の様相を呈したお寺であったことが判明したけど、多勢に無勢の極例だ。
東西南北3重4重5重に光秀軍に囲まれちゃって、一挙怒濤で攻められたわけなのだから、後のカスター将軍の大隊全滅よりはるかに激烈。
わずか220m四方の空間に1万2千人… とんでもない密度。
かつて信長は、戦場で、浅井長政の突然の離反でもって超絶な窮地に置かれたものの、僅かな家臣と共に逃げのびた事があったけど、本能寺ではその脱兎も出来ない、1分の猶予もない状況に追い込まれた… ワケなのだ。
前日の茶会を実務面で仕切ったと思われる一雲斎針阿弥(しんあみ)も、信長や蘭丸ともどもに落命する。


ところが、その苛烈な状態にあって、脱出した人もいる。
信長がかわいがって武士身分をあたえたらしき黒人の弥助(ヤスケ - ポルトガル宣教師の奴隷だったのを信長がもらう)は、信長本人から逃げ出せと云われ、成功。その足で、やはり襲撃されていた信長の息子信忠の元に駆けつけ奮戦している。(その後の消息不明)



※ 朝日新聞社刊『週刊 日本の歴史』より。


それから、信長の日常の世話をしている複数の女性も脱出できた。
うち1人は、のち江戸時代になって小倉藩に仕える津田家という200石取りの藩士の総祖母となる人だけど、当時は信長の女中(女房役という)だった人。
織田家とは遠縁にあたるらしい。(織田家の出自を辿ると津田性になる)
この人の証言は今に残り、流血しているらしき信長に駆け寄ろうとするものの、女の出るまくではないと部屋から押し出され、そのあと、中間(ちゅうげん)だか誰かが信長を背負って裏門に向かうのを目撃したという…。
その信憑はともあれ、彼女と他数名の女性が脱出したのは確かなようである。


で。
もう2人、脱出したのがいる。
それが主客だった…、神屋宗湛と島井宗室の両名だ。
2人は茶会のあと、そのまま本能寺に逗留し、すなわちお布団を敷いてもらって眠り… 早朝に、難に遭った。


この時(天正10・1582)、博多最大の豪商に成り上がっていたとはいえ宗湛は31歳だから… まだ出家はしておらず、坊主頭ではないはず(宗湛の名は出家してから)。
かたや宗室は43歳。こちらもまだ出家しているワケではなさそうだから頭髪もあったろう…。
寺の坊さんなら殺害される可能性はチョットだけ薄くなったかもしれないけど、この2人、髪を結わえ、その場にいりゃどう見たって信長関係者なんだから、即行で殺されてもいいのだけど、どういう次第か、逃げ出せた。
お客として本能寺に来てるんだよ、廊下や部屋の構造を熟知しているワケもなかろうに…、どうやって早朝の暗中を、脱出不可能ないわばアルカトラズから出られたか、これが判らない… んだ、ボクには。


しかも、両名ともども、前日に信長が自慢して見せたお宝、"名物"を持ち出しての脱出だ。

神屋宗湛は、宗時代の中国の僧牧谿もっけい)が描いた水墨画を軸に仕立て直した 『遠浦帰帆図』(えんぽきはんず)を。
島井宗室は、空海すなわち弘法大師直筆の巻物『千文字』を。




この2品は、はるか後の江戸時代、松平不昧(ふまい - 松江藩7代目藩主・松江を茶湯文化の町にしちゃった茶道楽のヒト)が所有することになる。
おそらく不昧は高額で買い取ったのだろうが、ま〜、それはどうでもよろしい。
ボクが判らないのは、先に書いた通り、なぜこの2人は無事に脱出できたのか?
また2人ともに、信長のお宝を、なぜ持って出たか?
この2点で足踏みさせられてしまうワケなんだ。
普通、まず状況的にいって逃げられないでしょ。信長ですら逃げ出せなかったんだから…。
その上、"名物"の持ち出しだ。まさか就眠した部屋にそれがあったワケはなかろうから、彼らは「探した」には… 違いなかろう。
掛け軸を巻いてフトコロに入れちゃって… るのは、茶器だと、それは箱書きが座った豪奢な桐箱に入ってかさばるから、ドサクサでは無理だったんだろう。
しかし、この振る舞いはまるで、火事場泥棒じゃ〜ござんせんか。


身長1m90cmほどで真っ黒い弥助が切り抜け出られたのは、おそらく、その異形ゆえに対峙の兵士側がビックリ竦んだと思えるし、複数の女房役が逃れられたのも何とはなく判る…。ま〜、事件が夕方とかなら違う展開になったかもしれないが夜明け前後のことだし、場所が場所、天皇の住まう御所からわずか1800mに満たないお寺さん、当時最大最先端の街のドマンナカだ。逃げる女性を乱暴するような時刻でも場所でもなかったろうゆえ…。
けども2人の豪商はどうだ?
今と違い、兵士と民間人は別という概念有りの修羅場じゃない…。討ち取ったヤカラの首を提出して、"価値あり"と判ったら恩賞がもらえるだよ、この頃は。攻める方もだから我が手で手柄をと必死。
ああぁ、それなのに何故2人は脱出出来たの?


で。もう1つ、妙なことがある。
島井宗室は本能寺の変の5ヶ月前(天正10年1月25日)に、堺の浜辺で催された茶会に招待されているが、この主催者は、な〜んと、明智光秀なのだった。



※ 晩年の島井宗室像


これら史実を説明してくれる親切な本やら記事に、まだ、出会えていないのが残念だ。
ま〜、あんまり深く考えすぎると陰謀説めいた袋小路に堕ちちゃうから、ここは今のところ、緒事実のみの列記で終える。
2人の"火事場泥棒"は女装して逃げたんか? などと余計な詮索もしつつ。


こ〜いう場合、岡山県北の津山界隈にゃ、便利な方便がある。
「どういう、まぁ…」
と、ヒトコト云って黙り込むんだ。
あとを続けず、ただもう感歎なり感嘆した状態でもって意識的に固まるんだ。
「どういう、まぁ…」のあとの無言がこの場合、ビックリ効果増幅の要めなんだ。なかなか便利だよ、これは。
西洋式なイエス・ノーの二分化がこれにはないの。
取りようではイエスであり、またノーでもあるような、アイマイが肝心。
だから、こういう語法の地域からはトランプのような人物は産まれにくい。
それが良いか悪いかは、判りませんけどね。


ま〜、ともあれど時代かわって2017年の今現在。
『千文字』は明治になって松江藩が終焉したさい、博多駅から15分の東長寺に寄贈されたらしきで、今は同寺所有の"宝物"だ。
『遠浦帰帆図』は京都国立博物館が蔵し、重要文化財に指定されている。
遺体探索も困難な程に焼けきった本能寺から、この2品、よくぞご無事で… としかいいようがない奇っ怪数奇だけど、事の実相を… 知りたいもんだ。