スズメの学校

幼年期に唄った「ちぃ〜ちぃ〜ぱっぱ〜・ちぃ〜ぱっぱ〜」が、この頃は、

じぃ〜じぃ〜ばぁ〜ば〜 じぃ〜ばっぱぁ
じじぃとば〜ばのカッコ〜ゥわぁ〜
どっからみ〜てもじぃ〜ばっば〜♪

と、聞こえないではない。
ホーリブル・オールドマン(クソジジ〜だね)の入口に立って、これを特権とも思ったりして、気分をお慶びに転化させ、ニッタリ笑ってる今日この頃。
過日、児島方面で、実に30年ぶりで友と会食したさい、
「ぅぅむ、も〜そんなに時間が経ったかぁ」
感慨の井戸の深みで感嘆がエコーしたけども、が、いまだ自分たちはスズメの学校の生徒、
「まだ何ぁ〜にも習得できてね〜」
見解一致で頷きあった。



「エホン文庫童謡画集」講談社 1946年刊より チョット画像が荒いですが…。


しかしあらためて『スズメの学校』を唄いなおしてみるに…、オリジナル歌詞では、先生は鞭をふるう。
ムチをふりふりチィパッパ、だ。
それに対して、
生徒のスズメは輪になって お口をそろえてチィパッパ
というワケで、さらに、

まだまだ いけない チィパッパ
もいちど 一緒に チィパッパ
チィチィパッパ チィパッパ

何度もムチがふるわれた形跡ありで、徹底して叩きこまれる。
お口を揃えるグルーヴィ〜な連帯は判るにしても、ムチが連隊的。
これではまるで…、強硬に鋳型に流し込まれるような、「調教の歌」なのではあるまいか。
サドマゾ・ベースのスパルタンな洗脳っぷり… が、気にいらない。
よって、スズメの学校は忌避しよう。



メダカの学校を見学してみよう。
川の中だから冬場は嫌だけど、そっと覗いてみたならば、みんなでお遊戯してるようだから…、なんか自由っぽい。
お、いいぞ。
が、しかし、よく聞くに、

だれが 生徒か 先生か

だれが 生徒か 先生か

みんなで 元気に 遊んでる

2度も繰り返しで、先生不在を示してる。
いいのか、それは? 
生徒と先生のけじめがなくって遊んでばかりでいいのか?
それは「メダカのフリースペース」じゃ〜あっても、学校とは云いにくい。

などと思うと、やはりメダカの学校もつまらない。



ま〜、以上は歌詞批評に過ぎないし、歌詞が創られた時代の空気をよく示しているとも思えるけど、年齢を重ねるに連れて妙に学習意欲が高進するのもまた確かなようで、実際、そこらの公民館なんぞをソ〜ッと覗いてみると、○○教室だの××教室だのがオ〜ハヤリ。とても盛況。
若者には小中高に専門校に大学とあるけど、老齢者の受け皿は公民館くらいしかないんだから、盛況は当然だ。
嘘と思うなら、試しにそこいらの公民館を覗いてみてよ。ま〜、ビックラするくらい60くらいな方々でいっぱいだからよ〜。
だから、今の教育制度は根本を見直して、これからは老人のための学校が出来て良いと思う次第。
入学資格は55歳以上とかね、学位もチャンと出る。いや、マジ本気でね。
若者より老齢者の方が学習意欲が高いんだからね、すごく。でもって、学習がためにはそれなりの出費も厭わないんだよ。
いまだこの国が先進国だという幻想に取り憑かれてちゃ〜いけないヨ〜。老化社会を高度に愉しめる国にしなきゃ…、ね。
そこの校歌が、最初に紹介したヤツだよ。


じぃ〜じぃ〜ばぁ〜ば〜 じぃ〜ばっぱぁ


チョットこぶしをきかせて唄いつつ、"美味しい"と書いて"老いしい"と解釈するもまた愉し… などとほざいて、さてお茶にしよ。



茶菓子は名古屋は両口屋是清の「ささらがた」。
はんなりほのかな甘味がいいヨウカン。サイズも絶妙に良しなんだから、よ〜噛んで食べよ…、って〜なベタは若者は云っちゃ〜いけない。よ〜考えて云え。


2月4日の山陽新聞朝刊に「びわのみ文庫」模型についての記事を書いてくれた記者氏から連絡ありで、もう一筆したいとか…。
はたして掲載にいたるかどうかは不明だけども、それで話してるうち、
「なぜ模型を職業に選んだか?」
とのクエスチョンに、即座に答えられない自分があって、
「あれれ?」
逆に面白がれた。
要はヒトコトじゃ〜語れない性質での選択だったんだけど、記事という括りの中ではイチゴンにまとめなきゃ〜いけないワケで、そこのせめぎ合いが面白かった。
「模型を通じてアレコレ学習したかったようだ…」
カッコ良く云ってもみたけど、それはこの年齢になってやっと云える感想でしかなく、はるか昔の気分とは、たぶん違う。



坪田譲治の「びわのみ文庫」模型。岡山シティミュージアム坪田譲治とおかやま』展にて展示中。4月9日まで。
これはいわば坪田の私設学校と云ってもよい。


それで、学ぶというコトで、学校を思いだし、スズメやメダカが徘徊したワケだ。
ちょうど今、復古主義な、というより狂信的な教育方針を掲げた小学校新設が問題になって、それを糾弾したい勢力と擁護したい勢力とが火花散らして、おそらく例によって例の通りにアイマイに、大山鳴動してネジュミ一匹で…、問題はウヤムヤ収斂するのだろうけど…、さてさて学ぶとは何でしょう? いまさらに自問する次第。
学ばされるより、自ら学ぶのがイチバンに良いのだけど、そこの境界は常にアイマイで判りにくい。
A君には良き先生でも、B君にはヒデ〜〜っだったりもあるし、また、経験イコール学習と云ってもよい場合も多々あるし、経験しても通過するのみで一向におぼえられない諸々もまた、多。
けども薄明かりの中の輪郭みたいに、近頃はチョットだけ見えてるものもある。
勉強しましたァ、バッチリです〜ゥ、というフリが出来る… ヒトの特性が。


「メダカの学校」のラスト・ワードは意味深だ。


水に 流れて つーいつい

水に 流れて つーいつい

みんなが そろって つーいつい

愉しく群泳してるつもりだけど実態は皆んな一緒に流されている… と読むべきかしら。生徒先生のけじめもなく遊んでばかり…、となれば、これはプロテスト風味な「自戒の唄」と云えなくもない。