花鳥風月 ~御伽草子~


毎度のことながら、春のスピードは速い。
ユスラウメの花がほぼ一気に咲き、アレヨアレヨの内、もう緑に変わる。
かの花咲爺は開花速度をいっそう高めたがる人だけど、せっかちだなぁ…、の感想も浮く。


ま〜、高速老春はさておき、いつ聞いても、いつ口にしても、ぁあ〜なんて雅びな4文字熟語かしらん…、そう思わずにいられないのが、「花鳥風月」。
中学生の頃には、資生堂だかカネボウ化粧品だかの造語だと意味もなく思い込んでた。



花鳥と風月はそれぞれ別な領域に置かれた単語で、あわせて綴ったという次第じゃ〜、最初はなかったようだ。
語源をたぐると、「花鳥」は詩歌や絵画などに題材を置くさい用い、ときに、
{花鳥の使}
などと、艶書(ラブレターだな)を"使い"に運ばせた男女間のことを指したりもする。
古今集には、
「好色の家にはこれをもちて花鳥とし…」
などという粋な表現もある。むろん、京に生息の公家階級でのハナシ。一般ピープル恋愛模様に"使い"など、いない。
この使用例で判る通り、「花鳥」はイメージが広いんだ。活用に幅があるの。

一方の「風月」は、主に自然全般を題材に詩歌を編むさい使った。というか、そのコト自体を指していたらしい。
それが合わさって、4文字でもって、"風雅な趣き"という感覚熟語になったのが、鎌倉の時代か室町の時代か、いつ頃なのかもはや判らない。
しかし、 言語の優位を云いたいわけでないけど、英語では、
「Beauties of Nature」
としか訳せない、感覚鋭敏な1語4文字であるのはチョット鼻高い。
生のリアルでないフィーリングこそを前面押し出しの、想像力と構成力が素晴らしい。



当初、風月はフ〜ゲツでなく、フゲツと発音した。
なるほど、声に出して読むと、
「カチョウフゲツ」
の方が、ヒップラインがクッと上がって、締まりがいい。4文字の背スジがシャンと伸びる感じがしなくもない。
けど一方、フ〜ゲツと伸ばす発音に馴染んでる耳元では、淡くボカシがかったような日本の景観と、ゆるやかなくすぐりを感じて、なんだか自然っぽ〜いと意識しないでもない。春のうつろいを肌に感じる今日この頃ゆえ。
感覚もまた習癖に馴染むものなのかもしれない。


意外と知られていないけど、御伽草子の1篇に、『花鳥風月』というのがある。
これは人名だ。
花鳥と風月。
カチョウさんにフゲツさん。
京の都の近隣に住まう巫女さんだ。


ある時、お公家達が集ってパーティしているさい、古い1枚の絵(扇絵)をめぐってケンケンガクガク、意見が2つに割れた。
大変に美形な男が描かれ、そのそばで女が顔を覆って泣いている絵。
ある者は、
「このだんしは、ありわらのなりひらにちがいなし」
といい、ある者は、
「いいや、ひかるのげんじをうつしもの」
白熱し、止まらない。
それで、こういう場合、ピタリと真相を云いあてる巫女が、都の近くにいるというので、呼ばれたのが花鳥さんに風月さんなワケなのだ。



公家というのは… ヒマなもんだ。というか、そ〜いうコトをやって文化的履歴を更新させ続けるというのが、ま〜、役割だ。彼らがいなきゃ〜、平安から江戸期にいたる歴史的背景の大事な部分が判らなくなる。


で、2人の巫女がお屋敷(羽室中納言宅)にやって来た。
男の公達は、2人が老婆でなく若い美人だったもんだから、動揺する。(この場合は下心が萌えた的な)
ま〜、そこは置いて…、ともあれ一同集って、問題の扇をひらいて絵を見せる。


はたして、平安時代最高の美男子で歌人だった在原業平か、物語史上最大のイケイケイケメンの光源氏か…。
見守る公家達の前で、花鳥に異変がおきる。
在原業平が憑依して、彼の女性遍歴をしゃべり出す。歓喜の1夜やら、つらい恋の思いを吐露する。
それで在原に1票の方々は、それみたことかとニッコリだけど、しかし、花鳥は最後に、
「でも、憑依された御方の絵ではございません」
断言する。
「え? どないなコトどすか〜ン?」
と云ったがどうか知らんけど、一座は困惑する。
そこで花月は持参した鏡を取りだして、呪文を3度となえる。
すると、鏡に女の像が浮く。着ている着物から扇絵の女とわかる。
女は、光源氏はわたしといっぺんセックスしただけで後は見向きもしない… という意味の恨み言を語る。



さて、そうする内、今度は風月に光源氏が憑依し、鏡の中の女と問答をはじめる。
女は思いっきり恨みをいい、源氏の女性遍歴を暴露し、やがて次第に消え、変わって、鏡の中には扇絵と同じ顔のイケメンが浮き上がる。
風月は正気に戻り、
「扇に描かれているのは光源氏です」
そう告げる。
これでパーティでくすぶった火は消され、一同納得。両名には小袖10重ね、沙金(砂粒状の金だよ)10両が賜れて、めでたしめでたし…。


と、以上が概ねのストーリー。
ここで紹介したカラーの原本は、慶応義塾大学の図書館が大事にしまってる。室町時代後期に造られたものらしい。
物語として、さほどオモシロクない。
場面転換のない1室でのハナシ。起伏も平坦。憑依しての女性遍歴バナシがながく退屈な部類にはいる…。
(だからか? お伽草子を扱った本でもこの1篇はたいがい紹介されない)
では、この草子は何をいいたいのか。
なぜ、かつては幾つかの類本まで編まれ、それが今に残っているのか?



これは、いわば公家の社交上での基礎知識の一部を、物語的に綴ったものなんだ。
平安時代の「源氏物語」やら、史実としての在原の女性遍歴、またその遍歴が背景にある彼の物語たる「伊勢物語」は、鎌倉・室町時代の公家や、そこに出入りの新興勢力(商人とか武人とか)にとって基礎教養というか、それらを知っていないと会話についていけず、
「なぁ〜にも知らない御人どすな〜」
笑われる部類の"常識"ないし"知識"なのだった。


なので、この御伽草子「花鳥風月」は、古典入門の書なんだと、思われる。
でもって、花鳥と風月は、まさに公家社会における詩歌などなどの題材そのものでもあって、いわば象徴として巫女2人はその名をつけられている… よう解釈できる。
なかなかシャレてる。



しかし一方で、
「何をいまさら…、すべて承知しておりますぞよ」
源氏物語なんか、と〜の昔に読みましたわよオホホッ、って〜なアンバイのヒトの方が多くって、これを読む公家は…、よっぽどの若年か、よっぽどにアンポンタンだった…、というようなコトもまた考えられもする。
長編なオリジナルは読み通せなかったけど、絵物語になった「花鳥風月」が、いわばリーダース・ダイジェスト、いわばマンガで読む歴史、軽やかな要約として教えてもらう… という消息がほのかに見える気もして、だから、今となってはそこがオモシロイ。
公家の中にも、出来の悪いのがいたんだなぁ、と想像できるワケだし、また、絵が入るとヒトは注意力やら関心がアップするんだなァ、との納得もおぼえる。
花鳥風月の4文字が定着したのは、この御伽草子のおかげかも知れない。
であるなら…、今さほど紹介されない扱いはやや不当にも思える。
事実、江戸時代の喜多川歌麿はそこを材にして、みごとになめらかな線でもって作品を産んでたりもする。
彼の凄さは、時に文字すらも風景の1部かのように切り取ってしまうワザ。この作品もそうだ。4文字の半分は版木の外にある。読むな・眺めやがれ…、な気っ風の刻みようは学んで体得出来るものじゃない。



なぜ今回、「花鳥風月」を取り上げたかというと、数日前の夢に、出てきたから、だ。
近頃ケッコ〜面白い夢を見るんだ。ウフッ。
部屋の中に、着物の女性が1人坐っていて、すぐにわかった。
(とはいえ途中でSF的展開になって彼女はいなくなったけどさ)
でも、それが花鳥さんか風月さんか、どっちかわかんない。
顔も思いだせない…。
目覚めて察するに、ただも〜、出たのは花鳥か風月のどっちかというコトだけ。
ま〜、それが口惜しやという次第で。