カレーライスと稲荷寿司

前回の『唐人筭』で、
「渡来人の墓という確証はまったくない」
と書いたけど、ふと思ったのだった。
確証がないというコトは、証明できないというだけのこと、
「唐人の墓である」
とも、云えるはずと…。


吉備国の、それも上道(じょうどう)という豪族勢力の地であったから、かの古墳はその血縁者という確率はとても高いながら、それを常識的に踏まえて考察を結んでしまうのは…、はたして良いのか悪いのか、いささかフラついた。
出雲方面からの鉄製造の人と技術も流入していようから、上道家の元で当時の科学技術を導く先導者、あるいは、稲作の新たな技術導入で生産率をドドッと高めてくれた渡来の人だったゆえ大事に埋葬された…、というような創造もまた可能なのだ。
いまどきのキラキラネームは時代の軽さを示すだけの自由をはき違えた不幸の産物だけど…、かつて固有な名詞には何らかのチャンとした意味があったとも思えば、まんざら「唐人」を否定してしまうのも、また妙なのだった。


そこで、常識というものを考える…。
カレーライスと稲荷寿司がセット・メニューというのは誰も思ったりしない。
なぜならそれって、有り得ない常識だから。
けどもはたして…、ホントにそうか?
断固ゼッタイにそれはないとは云えないようにも、また、思うんだった。


ソフトクリームと牡蠣を一緒にしようとは、かつては誰1人思わなかったけど、いまや日生にいけばいつでも食べられるというのと同じくに、常識というのは、どうも…、実に脆いのだった。
と、そう結論した方がいい。


ボクが学生だった頃は、運動したら水を飲んじゃいけないが常識だったし、ましてやお腹を出しての駆けっこなんて〜のは非常識極まった。
それが今や、まったくの逆さまだ。


もっとでっかいハナシをすりゃ、たとえばボクらは、今住まってる大地が移動してる、大陸は移動するもの、というのを常識でいきている。
しかし、つい最近までこれは、非常識以前の狂気がもたらす言動…、というくらいに荒唐無稽なものだった。
ヴェゲナーが1912年に大陸移動説を唱えたさいは、
「気象観測員フゼ〜の大タワゴト」
当時の権威連中にバカにされ嘲笑を浴びた。



ルフレッド・ヴェゲナーの本


18世紀のはじめ頃での西欧の科学界では、地球の生年は、
「およそ6000年前である」
が常識だった。
BOOKとは聖書のことだったから、その教えこそが普遍。
「光あれ」
にはじまり、次いでその3日めに、
「天の下の水は1つところに集まり、かわいた地が現れた」
が、常識中の常識。それを17〜18世紀では6000年前と算出していた。
既にガリレオコペルニクスが教会の頑なに、柔軟を加味しつつはあったけど、大きな流れは昔ながらの教えの固執と反復の紋切りだった。反した異論を口にすりゃモグサでヤイトどころか全身を焼かれたりだから、キュ〜をすえられるどころでなかった。


19世紀になって、今や熱力学の単位名になっているケルヴィン(W・トムソン)卿が、
「マグマが冷えていく速度を算出すれば地球生誕の時期がわかる」
として、2000万年前という数字を出してきた。



ケルヴィン卿


6000と2000万じゃ〜エライ違いだけど、聖書の呪縛からヒトが解放された瞬間だった。それまでの常識が非常識なものだったと刻印された。
けどもケルヴィンが新たにつくった"常識"は「創世記」幻想を打破はしたけど、大きな欠落があった。
地球内部の熱源、ウランやトリウムの放射性物質が崩壊するさいの膨大な熱エネルギーが計算に入ってなかった。


そこが判ったのはほんのつい最近、1911年のこと。
アーサー・ホームズがウランが鉛になるまでの時間を計測する方法を見いだして、あれやこれの鉱石をドンドン調べてった。
それに伴い、地球誕生の時間が伸びてった。
10億年前というのが常識になり、次ぎに30億年(ボクが高校生の頃)になり、ごく最近に45〜46億年ということになった…。
だから、より古い鉱石がこの先みつかってそこにウラン粒子が息を秘めてりゃ、45億年はさらに伸びる可能性がある。



アーサー・ホームズ


と、ま〜、常識というのはなかなか定着しないものなのだった。
そこでボクは、そんな宇宙規模ではないけども、自室でその…、定着した常識を非常識に換える試みをやってみた。
カレーライスと稲荷寿司をセットにして食べてみた。
カガク実験、だ。
津高岡山市の1地域)に新たに出来た"食のモール"みたいなエブリイで食材そろえ…、といってもほぼ全て出来上がりのモノを買って、定着した定食の常識を壊してやろうとの、志しの高さ。


試行前の感想として、
「これはいささか重いな」
が浮いたけど、あわせて同時にカラアゲにポタージュ・スープも加えての、ちょっと贅をこらした実験、だ。



すると濃厚ポタージュはカレー陣営にピタリ沿って歩きだし、これは稲荷側には傷手だった。
が、稲荷はその甘味ある姿勢を崩さず、カレーの辛味に対峙して一歩たりとも後退しなかった。
半分を食べ終えた頃には、「うどんとごはん」「そばとごはん」のセットを思わないではいられなくなった。
ケルヴィンが熱放射の物質存在を忘れていたのを反面教師に、ここでボクは、
「汁っけが欲しいな」
利口そうに独りごち、物質追加だ、ビールを参列させてみた。
ただしくは発泡酒だけど、訳してビールだ、たくして汁っけだ。
効果は大きい。活性化と云おう。
カレーと稲荷はどちらがオカズ? というような主従観を打ち消し、キング同士の会談のその平行線を楽しむホップな触媒というアンバイだった。



オマケとして添えたカラアゲは…、陣営を選ばなかった。
中立というわけでなく、どちらかになびくというような尾はふらず、しかし、カレーにも稲荷にも親和して、どこか悠然と微笑してるような風格をみせ、
「おやっ?」
その振る舞いと佇まいにちょっと驚いた。
本来なら主役級の身分ながらもオマケの位置でもって不平こぼさず、されど、毅然と自己を主張していたのは、これはさすがだった。
表面の硬さと中の柔らかさのダブルス構えは、古老ながらフレッシュ柔軟の加山雄三的若大将、食品界のエレキテルと持ち上げたいようなところもあった。比喩として加山は古いとカラアゲは思うかもしれないが…、三田明でなかったコトを喜んで欲しい。


カレーと稲荷を主題にしたハズなのに思わぬスター的伏兵の登場で、相対価値が分散した気配もなくはなかったが、食べ終えるや、セット・メニューの定説をくつがえせる実証が出来た完食の喜びに、満ち足りた。
が、裏腹、予見の通り豊満になった腹部の重みに…、
「2度めの実験は不要じゃな」
どんよりして横たわった途端にトロトロ眠気が兆しちゃって、知らず昼寝に突入してったのは、これは肉体生理の常識というもんだった。