龍ノ口山と旭川

岡山市の中央を流れる旭川は、龍ノ口山の北西面にぶつかってそこで折れ、山に沿って迂回し、瀬戸の海に結ばれる。
戦国時代の宇喜多家の開墾事業以前は、龍ノ口山を迂回したのち、川筋は幾つかに別れたりまたくっついたり…、雨が多ければ幾筋は太くなり、そうでなくば細くなると、形が定まらない川だった。龍ノ口山にぶつかった後は、葉脈のように幾重と分岐していた時代が長かった。
よりはるか昔は、広範囲が湿地帯とも内海ともつかない、けじめのないカタチだったろう。
菅原道真太宰府に舟で流された道中、一向は浅い内海の中で舟を手繰り、ポツンと孤立した島のような場所でトイレ休憩をした(らしい)。
今の天神山だ。(さらに昔は天満山ともいった。むろん、道真が九州に流され没した後での名称だ)
道真の逗留はあくまでも伝承でしかないけれど、嘘バナシと云いきるワケにはいかない。1116年前の実話の可能性もまた高い。
岡山神社内の天満宮、明治の亜公園、いずれもが道真伝承を礎にする。


古文書『今村宮旧記』には、
「岡山(現在のお城の場所)、石山、天満山の三岑(しん)あり、南に海原麓(ふもと)をあらい、松風波にたへて、干潮にみゆる砂原」
とある。


原尾島(地名)のデオデオの辺り、西河原とか東河原の地名が残っている。
それは文字通り、西に川筋あり東に川筋ありというコトを示してる。
当然、その西と東の真ん中に川面があったろう。
とすれば、やや太い流れが今の中央警察署あたりを流れていたコトになる。
それら大小の流れを、ちょいと西の小高い場所のそばを流れるように、戦国の時代、宇喜多直家が土木して1本にまとめる。
ちょいと小高いというのが、今の岡山城の場所、岡山だ。
宇喜多がそこを押さえるまでは金光という小さな豪族の砦だった。
直家は砦をブン取り、川から採取した砂利でさらに高さを増し、築城した。
東側の石垣のすぐ下に川を置くことで防御の壁とし、ついで、西側に町をつくる。それが上之町、中之町、下之町など現在の岡山市北区の中枢部。
ちょいと小高いそこは、さらに昔の源平合戦のさいは、源氏方の白旗が幾重とたなびく見張所として使われ、赤い旗を立てた平家方の舟の行方を追った。
それでいっときは、白旗山と呼ばれてもいた。
源氏平家が争そっていた頃は、現岡山城の場所が海にイチバン隣接した高台だったということが、これで知れる。
そこと、今の石山公園付近と、そして天神山の、この3カ所のみが水(ほぼ海水だろう)に浸食されない高い場所なのだった。



龍ノ口山の北側、大原橋近くの、山と川がぶつかっている場所は硬い岩盤で構成され、カヌーにでも乗って近寄れば、険しい岩肌が垂直に反そり立って、けっこうな景観を楽しめる。(上写真の下半分部分)
龍ノ口山がさほど特徴ある姿をしていないから、その岩場付近だけが妙に際立つ。
季節となれば岩盤上にフジが咲く。ただし、道路からは望めない。あくまでも川からの眺め。巨大な岩壁は界隈では見られず、奇観といってもよい。




※ これはだいぶんと前の写真。カヌーでその岩盤付近に近寄りましたの図。


江戸時代の末期(安政6年)、二代目・歌川広重は全国の名所を浮世絵にしたシリーズ『諸国名所百景』を売り出したけど、備前岡山の名所がこの場所だった。
備前龍ノ口山」とタイトルもズバリ。
当時は当然に大原橋はなくって、そばに渡し場があり、春から秋まで、江戸時代の岡山の富裕層はここに川舟を浮かせ、行楽した。
ゆるやかに流れつつ、歌詠みの会なんてぇ催しが多々あったし、芸妓を連れ出し、船中で、
「旦那、もういっぱいいかが?」
なんてぇ云われつつウィンクされて、ハナの下をのばしたスケベ〜もいっぱいいた。春の旭川はさらさら流れつつ欲望がうずいてた。グフッ。



広重はそこに雨を降らせ、行楽を打ち消し、背景の岩肌を浮き立たせた。
ただ、直接に取材はしていないだろう。実のイメージと違う。水が浸食した洞のようなものは実際はない。ホラふいたかもだ。
雨模様はそのゴマカシであったかもしれないが、この場所を全国に知らしめた唯一の版画だ、価値は大きい。
シリーズの他の版画と較べて暗い色調というのも特徴。見よう感じようではちょっと、ゴシックホラーっぽい味わいもある。
中州中央の人物は雨にやられて客が来ずで日銭を稼げない船頭さんだろうけど、「アッシャー家の崩壊」めくなドラマもまた感じられようというもんだ。
明治になって大量の錦絵が捨て値で海外流出し、この1枚(もちろん版画だから複数だ)も売られ、アチャコチャの欧米のミュージアムの東洋コレクションの1つとなった。
ちなみに岡山県立美術館は2011年だかに、やっと…、買えたようだ。



岡山でのカヌーの第一人者たる大山信(マコト)氏が話すに、旭川と龍ノ口山が接触しているこの場所の深さは現在では5メートルを越すらしい。笑うと若い三船敏郎みたいな顔になる氏は何度か潜っちゃ、
「こりゃ深ェわ〜」
破顔したらしいが、一方で、
「そこで遊泳しちゃいけない。一見は静かだが水中では流れが岩にぶつかり、水底は渦巻くように回転しているから、搦められると浮きあがれない」
そう警告もする。




※ ちょっと写真がないので、大山氏が出演のNHKの番組「にっぽん清流ワンダフル紀行」からスクリーンショット
2日かけて旭川を俳優の山口馬木也とくだる内容だったけど、こういう景観はなかなか写真1枚では伝えにくい。
そばに寄れば寄るほどカメラじゃダメだとわかる。だからさすがはNHK、ここは望遠で撮っている。



県北の蒜山から県南までをつらぬくこの川イチバンの深みでは…、長大な歳月をかけて水が岩盤を掘っているワケだ。
刻々に水は山の奥底に浸透も、している。
それがやはり長い歳月でもって浸み、南面側の平野の地下を潤している。



南面側、山の近くが雄町米の産地。
むっちりと肉づいて粒1つ1つに豊満の旨味ある雄町米は、そんな地下水があっての産物。
さらに江戸時代、祗園用水という水路がこの平野に張り巡らされ、これが田畑を潤沢に潤した。
地表に水路、地下に浸透水。濾過された水でサンドイッチ状態だから稲はスクスク育つ。
おまけに「晴れの国おかやま」というくらいに日照もよかったから、滋味が崩れずカタチにばらつきが少なかった。
江戸時代の一時、華のお江戸じゃ、寿司米といえば雄町米ということもあった。(宮尾しげお著「すし物語」1960年刊より)
短気気質な江戸っ子をして、
「シャリはオマチメ〜よぅ」
と、云わせた時期もあったようだ。
桶に入れ、街頭での辻売り。ファーストフードのはじまりだ。
酒造米としても引っぱりダコだったから、江戸での需要に供給が追いつかず、そのうち他の藩の米に押されてった。他藩のそれより流通価格が高かったという話もあるが、そこはチョット確証がとれない。



明治になって国が全国の名水を選定した。
水道が普及していなくってコレラ被害がモンダイだった時代だからね。岡山でも複数が候補にあがり、最終的に「雄町の冷泉」が100選の1つに選ばれて、誉れは現在に至る。
名水選定の背景には皇太子(のちの大正天皇)の全国行脚があった。
水道はないんだから万が一があったら大変と、旅の前に宮内省役人が地域の水を調査し、どの井戸を飲用に使うかを決めていた…。そのチョイスがそのまま名水100選ということのようだ。


内田百ケン(門に月)の実家は酒造家で敷地内の井戸水で酒を造ってた。皇太子が宿泊の後楽園からも近いので、その井戸水も候補にあがったが「雄町の冷泉」に軍配があがった。
なので内田は後年、ちょっと悔しがった随筆を書いてらっしゃる。
けど、これが味わい深い1篇で、怪談じたて。
内田家の使用人たちが雄町に夜桜を見に出向く(明治の頃は桜の名所の1つだったらしい)んだけど、1人、行方不明になる…。まだ電気がない時代、行灯の火の向こうの闇…、実話とも嘘話ともつかず、ホラーっぽいジンワリ恐怖が忍びよる風味で、忘れがたい。

雄町という地は、龍ノ口山南面下の平野中央にある田園(だった)だ。100選される前より、そこの井戸水は美味いと評判で、岡山藩池田家の御用水でもあった。
今はその水汲み場(雄町の冷泉)が現代風に整備(おまちアクアガーデン}され、毎日大勢、車でやってきてはポリタンクに水を汲んで持ち帰ってらっしゃる。
(我が宅の近く…。取水は無料)
この冷泉は、旭川のそれが龍ノ口山の地層に浸透し、そのフィルター効果で研がれた"上品"だ。
皆さん、何に使うんだろ? コーヒー? 炊飯? 洗顔




※ 背景が龍ノ口山。


けども今、その水で育つ雄町米を作る農家は少ない。
水は良くとも米生産では喰っていけず、近年はビール工場へ出荷の麦を作る農家が大半らしい。
そんな事情あって田畑を売ってしまう方も増えた。売らずともそこにアパートを建てるなりして農業から撤退している。
それで宅地化がどんどん進んでしまい、安いの高いのアレコレな住宅がポンポコ出来ちゃ〜の平成タヌキ合戦…、売れている。


この急速な宅地化に下水の処置が追いつかない。生活排水が祗園用水につながっている場合が多く…、流れの下流はその影響を受け、腐敗し汚れてる。
汚れ被害の最終地は瀬戸内海だ。
行政も下水事業を怠っているワケではないけど、20年後30年後という区画ごとの長期計画ゆえ、現実が推移(おしうつ)るスピードにまったく追いつけず、ヨロシクない。
ベートーベンの6番がいきなり5番に変わったという劇的なもんじゃなくって、なんだか気づけば、交響曲が独奏が過ぎる協奏曲にすりかわったみたいな、というか、チャールストン的狂騒かな…。
新造される家々と結ばれる電信柱と電線のメチャな這いっぷりには、"開発途上"の国にカタチが戻ってるような気がしないでもない。