びっくりメガマウス ~オウムガイの謎~

目撃例とごく少数の標本ありで存在は知られていたものの、動いてる写真がなかったメガマウス
こたびやっと、定置網にかかって撮影が出来たという次第だったけど、デッカかったね〜。
このような巨体生物の動画が今の今まで撮れなかったというのが、ま〜、おもしろい。
いかに地球が広くって、まだまだ未知がございますよ〜、と告げられたようなもんだ。



遠方の火星ではかねてから探査が続けられているけど、いまだ「生き物の証拠」は出ずで、ちょっと長嘆息ついちまうようなところもあった。
でも、そうですわな。
容易に見つけて写真に撮れようワケもない。
メガマウスのような巨体が生息できる環境時代ははるか大昔に終焉した火星なんだから、いても、せいぜいがバクテリア的なミニ・サイズだろうし…。


けども何だか常に、未知なものへの憧憬というか興味というか、遭遇したいなぁ、の気分というのは、誰にもあるね。
ネッシー、クッシ〜、雪男…、この岡山じゃ〜ツチノコとかね、いずれも生物学的常識の範疇では無理でしょうけども、でも何だかいて欲しいと思わずにいられない…、というのは何ナノでしょうな?


といって、じゃ〜実際に海で泳いでてメガマウスに遭遇したら、メチャ慌てるよ。
山中でツチノコに遭えば、心臓凍るよ。
パニックだな。
恐怖だな。
メガマウスは肉食じゃないから、よもや喰われたり囓られたりはないだろうけど、異形なデッカサに圧倒されて、痺れちゃって卒倒もんだと思うな。
でも、見てみたいと…。
だから、怖いモノ見たさがかなりのパーセントをしめる。
こういうのは、海遊館のぶあつい透明アクリル板の向こうで泳いでるのもイイけど、そうでなく、出会いガシラでビックラこいた〜ぁ、がイイのだね。
ま〜、こういうのを"希望的憧憬"と云うんだけど、いいじゃん。


もうズイブンと前だけど、世界中でトップ・ニュースになったのがあったね。
衝撃度も高かった。



あまりの腐敗臭にすぐに捨てられてしまって、残ったのが複数枚の写真のみ。
何たら鮫の死骸にマチガイないとか、いやそうでないとか、物証がないから議論白熱で、けどもヒトツキ後にはもう誰も話題にしなくなったね、確か。
経験豊富な海の男達をして、
「?!」
だったから、彼らはわざわざ貴重なフイルム使って写真を撮ったりもした(デジカメ時代じゃないよ)わけだけど、調査船じゃ〜ない。あくまで魚を獲って船内で加工する私企業の船だからね、強烈に腐敗している巨大なのは即座に捨てるのがアタリマエだったろう。
思えば惜しいことだったな〜。不明が不明なままで終わった次第だ。
いまだにボクは密かに、「アレは何たら鮫とかじゃ〜なくって、名前もない何か判らんものの死骸」だったと思ってる、ヨ。


けど、もう1つ思うんだけど、万が一にそれが未知の新発見だったとして、そしたら、それに名がつくでしょ。名があたえられ、個体数は非常に少ないが生息していると決まったら…、その途端、今までの興味がフイに萎んで、
「なんだ、つまらん」
というコトになるんじゃないかしらね。
未知だから興味あったけど、既知となれば、もはやシーラカンスご同様、
「ぁ、それが何か?」
って〜なアンバイに成り下がるじゃないかしら。
ま〜、だから、未知は未知のままで有り続けるのがよいのかも、ですな。
ネッシーも雪男もダンコ捕獲されちゃ〜いけないんだよ。
あくまでもどこまでも、"いる"ような気配が大事。


おもえばスピルバーグは『未知との遭遇』で、ニッコリ微笑の宇宙人たちを大勢出しちゃって、前半から中盤にいたるワクワクが台無しでボクを相当ガッカリさせてくれたもんだけど、捕獲された翌日にもう呼吸をとめたメガマウスには、どこか、
「神秘のままにして欲しかったな〜」
の、意思表示として自ら死を選択したような感がしないでもない。
(その死の翌々日だかに、また1匹出て来たのもオドロキだけどね)




ニッコリ宇宙人より、宇宙人を見てる方々に何だか宇宙人を感じた『未知との遭遇』…。


一方で、そんな気配の関数っぽいポエジーではなくって、リアルな科学探求もまたおもしろいね。
ピーター・D・ウォードの『オウムガイの謎』は、調査研究の歴史を紐解くみたいな趣きの本だったけど、生きた化石のように一般には思われるオウムガイが実は比較的新しい種類の生物というコトを示唆してくれて、
「あらまッ」
微かに驚いたりもした。
新しいたって古生代のハナシだけど、そのはるかはるか以前およそ6千万年も続いたカンブリア期で青春や老春を謳歌して悠々の三葉虫が、ある日突然に喰われるコトになったというドラマだ…。
喰われつつ三葉虫は自分をついばむモノの正体が判らなかった…、のがオウムガイ(の仲間)。まだ魚類は登場もしないロング・ロング・タイム・ア・ゴ〜に連なる長い話。



オウムガイの特徴は殻の内部が幾つもの隔室にわかれ、そこに水を入れたり出したりすることで浮力を造っていることで…、ヴェルヌの『海底二万里』のノウチラス号は云うまでもなく潜水艦はすべていっさい、オウムガイ(NAUTILUS)の構造模写な物体だ。
その隔室たるや建築デザイナーもビックリの見事な螺旋構造…。



しかし、ヴェルヌの時代にはその隔室にはガスが詰まっていると思われてた。
すべての魚は浮袋を持っていて、そのおかげで水中に浮いている。
オウムガイも同様、隔室にガスをためてると思われ続けてた。
それが覆ったのはついこの前の、1966年、英国の2人の学者さんの「オウムガイ類の浮力について」という論文によってだ。



深い場所に住む魚を一気に海面まで連れ上がると、浮袋が破裂し、魚は死ぬ。
浮袋はある一定の深さ、一定の圧力にしか対応していないから、圧の低いというか1気圧の海面にまで運ばれると、内圧で膨れ上がってパチ〜ンなワケだ。
しかしオウムガイは、たとえ水深460mから0mまで一気に移動させてもヘッチャラだ。
硬い殻は膨らむことが出来ないから内部の隔室は上昇に連れて高い圧力になるはず…。
なんで壊れない? なんで平気なの?
そこで殻に小さな穴をあけて実験してみる。高圧だからプシュ〜とかバッシュ〜とかな勢いでガスが漏れるだろうと予測された。
でも、出なかった。それどころか穴に海水が入っていった。
海水が入るというコトは隔室は1気圧以下の空洞というコトになる。
さぁ、ますます判らなくなった。
その解明のヘルプとなったのがレントゲンだ。
元気なオウムガイに大きく息を吸わせて「ハイそのまま」と撮影したところ、隔室は大部分が空洞だったけど、ハッキリ白い影も映ってた。
ガンか? ちゃうちゃう…、液体があるのだ。
それで、
「殻の中の液体の量を変化させることで比重を調整している」
オウムガイの生態がやっとこさ判った。
でも今度は、短時間のうちに水(体液)をどうやって隔室(およそ30数室ある)にいれるのか、排出するのか? という疑問にぶつかる。
潜水艦には必ずある排水バルブや排水孔みたいなものも、ない。



その解明経緯を書いてくれてるのが、『オウムガイの謎』なワケだ。
血液が浮力を得るための透明な液体に転換し、隔室に満ちるその様子は…、神秘としか云いようもない光景だろうね。
60年代に『ミクロの決死圏』というSF映画があって、人体内をプロメテウス号という潜水艇でめぐる過程が描かれ、当時の特撮技術をフル動員して、呼吸で入ってきた酸素が血液に転換するシーンを見せてくれたけど、読みつつボクはそこを思い出してた。
とてもおもしろい。


しかし、科学の現場じゃ、1つ謎が解けたら、ではそうなるには何が機能してるの? 次ぎの問いが出て来る。
「什麼生(さもそん)」
「説破(せっぱッ)」
ま〜るで禅寺の問答のように問い続けられ、解き続けなきゃいけない…。
オウムガイの研究者たちは当然坐って沈思してるんでなく、南洋のねっとり汗ばむ大気の中、何日も海に出ては問いに応えるべく、乏しい資金をやりくりしつつ研究してらっしゃるのだから、頭がさがる。
徒労に徒労を重ねて年数も必需。仮説を証明するに価いする結果が得られないコトも多。大変だ。


オウムガイはその寿命のながさなど…、まだまだ判らないことだらけらしいが、硬い顎で大きなロブスターの抜け殻なんぞをバリバリ食事し、かなりな深いところまで潜る能力(1000mくらいまで)、逆に浅いところまで上がってくる性能(垂直移動する)といい、適応力の幅を広くしようと努力している。
数千年先の海では、このオウムガイあるいはその仲間が海洋の水深400m前後あたりでの王者…、ということだってあり得ないことじゃない。
ま〜、その頃に人類はすでに「生きた化石」程度の希少種になって、ひそかに山中で細々おびえて暮らし、その頃の陸の支配者となった何かの文化的生物に、
「あのさ、●○山にはユキオトコがおってさ、何か煮てさ喰ってさ…、怖いけど見てみて〜な」
みたいに噂されるコトだって、あってイイや。