殿さんの茶の湯 part1

大作『神国日本 解明への一試論』を書きあげ、小泉八雲と名を変えたラフカディオ・ハーンの日本在留期間と、茶の湯の衰退期は一致する。
だから彼の本には、どこにも(ボクが読んだ範疇で)お茶が出てこない。
急死なく、も少し長生きしていたら…、茶の復興を直かに見聞し味わって、きっとそれは本になったろうと思う。これは不幸だった。
日本というカタチを構成した大きな柱の1本に、彼は接することが出来なかった。



ハーンの眼に映じた松江の城は異様なもんだった。
かの茶道具フリークの松平不昧の城でもあったそれは、主を失い、機能を失い、エンストして放置されて埃にまみれた大型車みたいに、巨大な廃墟と化している。
彼は「神々の国の首都」で、

鉄灰色一色の広大で不気味な形をそびえ立たせ----------
異様な厳めしさ----------
巨大な仏塔が、二層、三層、四層と、自らの重みでだんだんと押し潰されたかのような----------
怪奇なものを寄せ集めて出来た竜のようで----------


異様、不気味、怪奇、とダークな単語を連ねる。(池田雅之訳/角川ソフィア文庫
おごらず、素朴で、しかし神々と共に日々をおくる庶民的日本の姿に魅了された彼の眼にしてみれば、権力者の廃屋はドラキュラ城のそれに連なる強張った古怪なものであったに違いないし、おそらくは畏怖もおぼえたろう。
彼は、荒廃した松江城に登って下界を展望しての感想で、

鷹のような気分を味わえ----------
眼下に城内の道が見下ろせ、そこを歩いている人たちは、蝿ぐらいにしか見えない。


立場の違う眼がどう動いていたかを知覚してもいらっしゃる。



※ 明治初年に撮られた松江城


けども、その権力者らがどう跋扈し、機能し、何を中心に置いて生活していたかまでは思いを深めない。
極めて日本的行事たる"茶事"がそこで行われ、それがどれほどの文化的度合いで裾野を拡げていたかまでは、眼が届かない。
色の3原色から1色を抜いたようで…、これは実に惜しい。


けども一方でハーンは庭園について、かなり詳細な部分にまで眼を向け賞賛する。
「日本の庭にて」(『日本の面影』の1篇)を読むと、庭に親しみ、さらには活花に接し、自ら活けたこともわかる。

その実践的な知識を得るには、直感的な美的感覚に加え、何年もの研鑽と経験を要するため、あくまでも見よう見まねで学んだ程度に限られるが----------


そう大いに謙遜した前書き(これが素晴らしい)を記してから、活花の本質を探ってみせる。
ただの一輪を活けるために時に正座したまま一時間以上かける、エネルギーの有りよう、精神に、彼は感嘆し、その美への探求姿勢を賞賛する。
そして大胆にも、
「西洋のフラワー・アレジメントに関する観念がいかに通俗的なるものか----------」
と比較し、こうも書く。

西洋人が「ブーケ」と呼んでいる花束などは、花を生殺しにする卑劣な行為であり、色彩感覚に対する冒瀆であり、野蛮で忌々しい蛮行に他ならないと思うようになった。

日本の古い庭園がどのようなものかを知った後では、イギリスの豪華な庭を思い出すたびに、いったいどれだけの富を費やしてわざわざ自然を壊し、不調和なものを作っていったい何を残そうとしているのか----------


数ページにわたって極めて強い批判を紡ぐ。
しかし、ここでビックリするのは、その対比、花一輪への思考についてが、かの岡倉天心の『茶の本』の第8章「花」と、ピタリと一致することだ。
部分を抜き書きすれば、天心が書いたのかハーンが書いたのか皆目ワカランほどに心情が合致してるんだ…。
もう1人の岡倉天心が、ここにいるワケなのだ。



※ 小庭のハス1輪。さすがにこれは活けられない?


日本の面影 1894(明治23) ホートン・ミフリン出版社刊
茶の本   1906(明治39) フォックス・ダフィールド社刊


実は上の通り、天心よりハーンが先んじて、花を書いている。
けども、惜しいかな…、一輪の花を活けるという行為の根底部での茶の湯という"事象の存在"が、彼には欠けてるんだ。
ハーンには、花を活けるという動作と、茶をたてる動作が、1つの流れ、1つの閉じた宇宙、としてあったという事の仔細が抜けている…。
その欠落理由こそが、江戸から明治への激変期での茶の湯の衰退なのだった。



天心の場合は、そうでない。彼は明治以前の日本を存分に知っている。自身が庵を造ってそこで日々を送ってもいる。
でも、来日のハーンには、
「先生っ。このように茶はふるまいます」
そう教えてあげる人がいなかったと想像できる。
松江は今は山陰・山陽地方最大のお茶文化の地を誇るけど、それほどにこの時期、茶は衰退していたんだ、な。
おもえば惜しいことだった。



明治以前、なが〜く続いた江戸時代の支配階級社会を、ヨウカンをカットして芯部分に何があるかと眼を近寄せ顕微鏡っぽく眺めると、栗も小豆も出て来ず、茶の湯がドデ〜ンと座っているのが見える。
茶の湯と能がセット・メニューになっていることも、多い。
しかし歴史書は、そのことにページをさかない。


江戸期の殿さんの"仕事"は、ベチャっといえば、子供を作ることと茶の湯だ。
子作りはその体制維持の要め、継続な血統こそイチバンの世界なんだから、殿さんは夜ごとお励みになる。
"性治"だ。
一方の茶の湯は、儀礼の要め。これは心得がしっかり出来てないと対面に関わる一大事。茶事をこなせない殿さんは殿さんでない。
それに能が加わる。概ね、殿さんは自身で能を舞える。
岡山の場合で一例すると、池田綱政は元禄9年(1696)の8月6日、江戸城内「御座の間」にて、将軍綱吉に能「三輪」を演じ見せている。
帰省のたびに後楽園(岡山の)の能舞台にたってもいる。



※ 曲「三輪」のシテ。池田綱政もこの写真に似通う小面(こおもて)と装束で舞ったんだろう…。
池田家の後楽園(御後園)利用で特筆なのは、能を家臣らだけでなく一般ピープルにも見せたこと。この綱政の場合でいえば、たとえば宝永4年(1707)の9月17日公演では467人、正徳4年(1714)の公演では806人の民衆込みの観客の前で、入場料もとらず…、藩主自身が舞っている。(池田文庫「日次記」)


能と茶はコインの表裏ではなくって、どちらもオモテ面だ。
ただ、江戸時代の大名茶は…、利休の頃の革新も前衛もなく、利休の頃の模倣を出るものではなかった。
後楽園(江戸時代は御後園が正式名)には大きな茶畑があり、毎年かなりの茶葉が園内で蒸され干され、造られた。
イチバンに出来の良いのを江戸の備前岡山・池田屋敷の殿様に送り、次ぎのを城内で使用し、残りは売った。
売って、後楽園の維持費を捻出していたようだ(それでも足りないけど)。
これはちょっと…、ボクには意外だったけど、茶の湯に用いる抹茶は京都から取り寄せていた。
後楽園の茶葉は日常での煎茶に用いたようである。
極上は宇治に有り、という既成を越えようとはしなかったワケだ。



それは茶の湯前提の庭造りにもいえる。いわば形式が踏襲されるばかりで昔の庭のコピーの量産といって…、いいかもしれない。
徳川体制は変化を嫌い、ただその温もりの中での"しきたり的行動"に軸足がおかれた。
だから多くのモノ造りもその範疇にあって、建築も作庭も、まずは棟梁がいて、職人はそれを真似てくコトが大事、徒弟制度が極まり、独自カラーを出すというようなコトも出来ないし、しなかった。
「前例がない」という役所コトバと態度に代表される現状維持を好む癖は、ながい江戸時代が発酵させたといえなくはない。
ただし、重箱の隅を突っつくみたいな細部へのこだわりはメチャに深くなってった。たぶんにこれが今のオタク的文化の根底にある水脈につながっていく…。
材質素材の吟味、工程の精度、仕上げの丹念、ちょっとのメダマと感性じゃ判らない部分でとんでもないエネルギーが費やされる。


停滞した日本式な庭園を見直したのは、前回記した重森三玲が嚆矢だろうけど、今回は触れない。


つづく (^_^;