殿さんの茶の湯 part3



近頃の"現代アート"な各種の催しと作品にボクはわりと辟易している方、だ。
わけても、空き地を利用のそれには"芸術ゴッコ"の感しか、受けない。
つい最近も、こんなのが天神山にポコンと置かれて、場にそぐわず、いっそ滑稽、いっそ醜悪を感じた。
場にそぐわない、というのはボクが天神山界隈の明治期あたりからの歴史をチョットかじってしまっているせいもあろうけど、唐突な異物、としか眼に映えない。
展示物なんだから触っちゃダメよ…、の柵ごしらえも滑稽。
この展示物の近くの小さな公園にある、セメントの滑り台の方が、よっぽどに魅惑あり。



かつて「秘宝館」なるケッタイな見世物舘が全国にあって、ほぼ100パーセントそれは温泉歓楽街の場末にあった次第ながら、猥雑の中のエログロゆえの硬質っぷりといった…、1本の俠気に似る"思想"が充満していたという気が今となってはしないでもない。
ボクが直に接したのは四国の某温泉街で、それも40年ほど昔日のことだから、かなり記憶があいまいになってるけど、男女の"性事"におけるアレコレを、赤面するような熱心さでもって果敢に展示している、その熱心温度にびっくリした次第が、「俠気」としてボクの中では知覚され今にいたる。
ここでの"俠"は、それがためなら命も惜しまないといった一生懸命っぷり、その気概という感じで使ってるんだけど、いっそ、現代アートのそれよりはるかに、思想の厚み有り…、とボクは思ったりもする。
「秘宝館」の展示物は観念的なものでなく、徹底の具象なのだけど、徹底ゆえにいみじくも壮大を引き寄せてしまっているような、あげく、
「カッカッカッ」
大笑するような妙なアンバイにくるまれるのだった。



茶の湯のことを伝統的芸風…、とはボクは思わない。いっそ現代アートの域に本来はあるものだと、思ってる。
茶の湯とエログロな秘宝館をゴッチャ煮るのはヨロシクない流れだけど、感じられる共通点は、ラジカルな美に裏打たれた仁義…、みたいなとこ。
井伊直弼の『茶湯一会集』を読むと、どうもその仁義配分が重すぎる感もあるけれど、ま〜、そこは見立ての問題。
自身を型にはめつつ同時に型から脱出するみたいな、あるいは、ヤクザのメチャなふるまいと一方での仁義任侠を重んじるアンバランスなラディカリズムみたいな、同時発生の2極な分離に面白みをおぼえる。



茶の湯には、強烈な求電力と放電力が同時におこってバチバチ火花をあげている…、と見ている次第。
それゆえ最近やたら、茶の本に接して、いわばラジカル・ミステリー・ツアーをやってるわけだけど、まちがっても"茶道検定"の類いは読まない。本屋さんのお茶関連のコーナーの大半がそれだね。
それじゃ〜発火しないよ。


しかし、江戸時代から明治時代になった時、茶の湯がひどく廃れたのは事実なのだった。
閉じた国が開かれ、途端、一気怒濤で入ってくる西洋のモロモロ。
それと同時に日本の伝統的なモノモノを、
「古臭ぇ〜!」
と思ってしまう風潮がおきた。
だいたいが…、右へならえが好きな国民性。なが〜い江戸時代の諸々な強権に対しての処世術がそんな体質を育んだとボクは思ってるけど…、昨日まで愛でたものを突然に捨てることもする。
「銀座で珈琲よネ〜っ」
がカッコ良いとなれば皆なが倣う。
この伝搬速度は速かった。
馴染みない苦みに砂糖の需要もドッカ〜ンと増えた。輸入の砂糖が珈琲の魅力をアップさせ、その勢いで、大日本製糖といった独占企業も出て、どえらく儲けもした。
さらには、土壁より煉瓦でごじゃる…、と西洋建築が全国で一気にニョキニョキ。
当然に煉瓦も国産化に向けて見よう見まね、全国アチャコチャで工場がニョキニョキ。



※ 明治の錦絵。小林清親の「日本橋夜」


ただし土足で歩ける室内環境構築までは進まない。
靴の製造という新規事業に、「皮を扱うのは…」と頑強頑迷な差別意識が邪魔をした。
神道の「穢れ」「不浄」といった概念のこれは悪しきトンデモな弊害だったと思うけど…、さらには、明治政府が神道国家を標榜し、仏教を軽くにあしらったもんだから新たな誤解が生じ、廃仏毀釈というメチャも起きた。
茶の湯はその仏教文化と密にからんでいたから、打撃もまた大きかった。
もちろん1つには、幕府や諸藩が援護していた茶の湯の緒流家元および茶坊主組織が、幕府と藩の瓦解によって禄(収入)を失ったという事情もあるけど、西洋的なるものへの蠱惑が茶道をふくむ日本独自の芸術を一挙に軽視させてった。


れんめんと続いた茶の湯文化は、明治のスタートと共に最大の危機を迎えたわけだ。
その期間はおよそ40年におよぶ。
ラフカディオ・ハーンはこの時期に日本に居て、なくなってしまった(part1を参照)。
だからこそ、岡倉天心の踏ん張りなくば、はたしてどうなってたかしら? と思わずにいられない。天心の面目は、かの思想書茶の本』を米国で英語でもって出版したことだろう。



茶の本』は日本で日本語で書いてもさほど話題にならなかったと思える。
『The Book of Tea』として、外からやって来た日本再発見というカタチがよかった。




天心の著述で、けったいな西洋一辺倒の潮流に堰が出来た。(むろん、それだけじゃ〜ないけど)
鹿鳴館での過度の模倣や激情から醒まされ、復古の温度が上昇した。
滑稽な自分たちの姿にやっと気づき、赤面もした。
(上の写真・板垣退助とその奧さんと娘さんの不本意な洋装)
岡山の場合でいえば、明治到来と共にまったく売れなくなった備前焼が、また売れだしはじめる…。
池田家の大庭園・御後園(後楽園)を残そうという運動もおきる。
その点でとっても損したのは島根の方々だったかもしれない。


テンヤワンヤの元凶は、黒船というカタチでの外圧だった。
ノックの強さに日本はあわて、拒絶の意志として、急ごしらえのお台場(重い砲を置く台座)を品川湾中に設ける。
そこにあったのが島根は松江藩江戸屋敷。かの松平不昧がかつて造り、自慢した大崎園だった。
(不昧についてはコチラを)

坪数2万2千の大庭園。茶室はいったい幾つあったやら。
(今に残る初期の図面によれば、その数は11棟。庵の増築の可能性も高い…。ちなみに岡山の後楽園は1万7千坪)



※ 園内のごくごく一部の図面


これを、幕府が臨戦の危惧に泡くって没収、周辺の海際の土地を含めてブッ壊しての大砲設置なのだった。
伝統的芸能的かつ心を磨きに磨くような茶事の場が、いわば外圧がために踏み躙られフッ飛んだワケだ。
不昧が生きてりゃガックリ以上の憤怒に色をなしたろうし、今や「お台場」は誰もが知る所だけど、そうなる前の、お茶のための巨大施設のことは忘れられてるんだから、損という他コトバがない。



※ 谷文晁が描いた蔟々閣(不昧の庭園内の茶室の1つ) 島根県立美術館


ボクが今接したい本は、「茶の湯の歴史」とかではなく、「茶の湯から見る日本」というカタチのもの。
これが意外とない。なのでこうやって一文してるワケでもあるんだけど、ね。
明治の日本は水いっぱいのバケツがひっくり返ったようなアンバイな時代だったとは、思う。
大量の雑巾が必要だったわけだ。で…、部分はまだ乾いていないの。