明治の面影 ~天神町に山陽放送がやってくる~

先週あたりより工事がはじまっている。
明治に亜公園があった場所。その後に岡山警察署が出来た場所。
警察署は明治・大正・昭和と続くも…、昭和20年の空襲で焼けて破壊され、以後はずっと行政がらみの施設がそこには置かれ、最後は農政局となり次いで後楽館高校となった。
高校が移転して数年…。その場所が明治の亜公園と同様、市から民間へと譲渡され、工事がはじまった次第。
やがて山陽放送の本社ケン放送局ができる。



警察署時代の遺構があるのに気づいたのは、数年前だった。
警察署の模型を造っているさい、その形状と場所の一致に、
「えっ?」
「マジ?」
ビックリした。
県や市の文化行政を担う部門が、なぜ、これを知らぬまま今に至ったか不明だけど、ともあれビックリしゃっくり、漏れた遺物の存在に一喜した。




一昨年のシティミュージアムでの講演時、この事をおしゃべりしたんだけど、だからといって、即行で拡散認知されるワケもない…。
いぜん、知る人ぞ知るの、小さな遺跡であった。
某新聞社さんにもこのコトを記事にと申し出たけど、はたされない。
後述で登場のF女史が、毎日新聞の地方欄で記してはくれたけど、それとて多くの人が読んでくれたとは…、いいがたい。



建物の煉瓦の基礎部分。
この礎の上に警察署が出来、出来るや直ぐに活用されたわけだ。
下の写真は、警官全員集合の明治38年当時の記念写真。
後述の、亜公園の集成閣もまだ建ったままだ。



警察署の設計者は江川三郎八。
当時の岡山県庁内でただ一人の西洋建築の専門家。
警察署は彼が岡山に赴任して数年後の極めて初期の"作品"。



※ 模型再現 右下の土台部分(アーチ状)が今に残っているワケです


煉瓦の形や色は不揃いで、これが煉瓦製造の極めて初期のものであるコトはまちがい。
おそらくは県内産。成形技術、燃焼加減などなどクリアしなきゃ〜いけない技術確保のさなか…、というのが眼にみえる。
個々が歪つでバラバラなのだ。
(それが今となっては良い味わいなんだけど)
だから稀少な資料でもある。
当時の県庁が道路の真向かいでもあったんで、空襲の爆撃ポイントにもなってしまい…、わずかにそこだけが破壊をまぬがれて、今に残っているのだから貴重でもある。
むろん、イチバンに価値ありなのは、それが警察署の土台として造られた明治のモノという事実。

これを、地所を買って新たな社屋を造る山陽放送さんが残してくれるのか、どうか…。
工事開始の報をきいて、いまさらに焦燥めいた感を深めおぼえる。



もっとも、数ヶ月前より、地域の"有力者"にはたらきかけをし、貴重な遺構を残して保存すべきとは伝えていて、幸いかな、声は山陽放送さんには届いているようではある。
ただ、まだ…、はたしてどうなるやらはワカラナイ。
ボクが地域の方々にはたらきがけたより先に、既に新社屋の構想が出来ていたようなので、そのプランの中に「小さな遺構の処遇」は入っていないワケで。
同放送局のラジオ部門で週1回、地域のヒストリアを語っているF女史もこのコトはとても大事と思ってくれていて、彼女なりに動いてはくれるようだけど、しばらくは、注視が続く。


この煉瓦の遺構は、明治時代の「物語」がたっぷりと沁みている。
ただの、警察署の痕跡ではない。
なぜ、そのようなモノがあるかを、ここで書いておく。ちょっと長くなるけど、しかたない。江戸後期から平成にいたるまでのヒストリーを数行で書けるワケはない。



神町のその場所は今も昔も1等地で、江戸時代にはず〜〜〜っと郡会所があった。
岡山藩池田家が所領する地域の、そのコマゴマした行政を司る場所で、年貢に関しての訴えゴトなどもここで処理されていたようだ。(大きな米倉も敷地にあった)
庄屋が呼び出されてお小言をいわれるというコトもあって、だから郡会所のすぐそば、石関町には当時何軒も旅館があった。たとえば山陽町界隈からここに来るだけで大変なんだもんね、橋もないんだから…、お小言を告げられるために一泊か二泊しなきゃ〜いけなかったし、行きも帰りも徒歩なんだから、文字通りにトホホ…、なわけだ。



※ 池田文庫の絵図面より 中央に郡会所、左下に"甚九郎橋"(二之橋)


明治になって郡会所は役割を終え、そこに岡山医学校ができる。
卒業出来たら試験なしでそのまま医者になれるという、とてもレベルの高い学校で、(落第者も多数でるよ、当然に)このクラスの学校は明治初期〜中期には広島にも山口にもないから、重度の病気の方が県外からも入院してた。
そう、病院も兼ねた学校なんだ。
簡単に申せば、これは第三高等学校(現・京都大学)が源流。その一部としてスタートし、ドイツ仕込みの西洋医学の先端、ハイクラスの学校ケン病院なのが岡山医学校なのだった。
しかし、当然、手狭になる。
そこで移転が決まる。移転後、やがてそれが今の岡山医大になるんだけど、そのヒストリーはここで紹介しない。


明治は、ホントにお金のない時代だった。
庶民にもなければ、国にもありゃ〜しない。
それで岡山県は医学校の跡地を売ることにした。
県費を捻出するためにね。


それを買ったのが、片山儀太郎だ。
30代の若者で、船着町で木材商をやっている。
この人は14歳まで豊島に育ち、14歳で船着町の金谷屋(木材商)に養子にやってきた。
今の感覚では14歳だなんて、ま〜るで子供だけど、むろん儀太郎君とて子供ではあったろうけど、他家に養子に出ていくというのは当時はそれほどヘンテコじゃ〜ないし、14歳はもう大人として振る舞わなきゃ〜いけない年齢でもあったんだから、今の感覚で彼を見てはいけない。


ともあれ、金谷家で木材商いを学びつつ、さらに成長。
やがて当家の娘さんと結婚。
独立して、片山木材店をはじめる。
ここから破竹の勢いがはじまる。


当時の木材商は、概ねのところ、建築資材として高級なものを扱うコトこそがイチバンと考えられていた。
江戸時代の流れをくんだ、それは当然のことでもあったんだけど、しかし実態は変化し始めていた。
幕府から政府になり、藩から県に変わり、新たな施設が必要にもなっている。
国民としての子供は全員、学校に通わせなきゃ〜いけない。
そう、学校を建てなきゃいけないんだ…、明治という時代は。
今まで架けてはいけなかった橋も、作らなきゃいけない。
そう、それまで橋は京橋しかなかったんだ。(それも関所みたいな感じね)
文明開化のキンコンカン…、さらには鉄道も引くことになる。(日清戦争での経験上、船舶軍船の燃料・石炭の輸送も要めだった)
いずれも、建造には大量の木材が要る。吟味した高級木材だけじゃ〜ダメなのだ。
儀太郎はいち早く(明治20年前後)、輸入材(ラワン)を扱った。
総ヒノキ造りの小学校や橋でなく、比較的廉価な木材を使用しての学校なり橋が求められ、儀太郎はその需要を見事に担った。



さらに彼は、ただ輸入材を提供するのみでなく、人材を集め、人材を提供するという、従来誰も考えなかった、いわば「組織的な土木建築事業」を開始した。
1つの校舎を建てるには、木材調達から大工さんの調達までと、アレコレあってメンド〜なもんだけど、儀太郎はそれを1本化してみせた。
行政やあるいは注文主にとって、これほどアリガタイことはない。


そんなんだから、ま〜、当然に、儀太郎はお金持ちになる。
そのさなかに、医学校の跡地を彼は、買った。
買った当初は、そこをどう活用するかは決めていなかったようだけど、やがて、鉄道が岡山にまで延びてくることになる。
今の山陽本線。当時は山陽鐵道という。
これが岡山にまで結ばれることになり、儀太郎の片山木材店が、線路の枕木や駅舎構築の木材を一手に担った。
最初の岡山駅東岡山駅瀬戸駅などの駅舎や施設、ほぼ儀太郎が手配したものであったと思われる。(確定的な資料はまだない)
枕木敷設の工夫(こうふ)も彼が集めた可能性が高い…。



山陽鐵道岡山駅(当時は岡山ステーションといった)が出来て汽車での移動が可能になった翌年、明治25年の3月に、儀太郎は天神町に亜公園を開業した。
一面の平野、高い建物ったら岡山城しかない、平屋だけの家屋で占められていた市内に、それも天神山という小高い場所に、集成閣という塔を中心に置いた娯楽施設を設けたんだから、誰しもビックリした。
どこからでも、その塔は見えた。
真っ黒い岡山城があるきりだったソバに、真っ白い壁の塔だ…、これは目立つ。
また、その塔に登れば、瀬戸内海までが見えたんで、皆さん、心底ビックリした。
だいたい…、景色を見るためにお金を支払う(5銭)というのを地方都市・岡山の皆さんは経験したことがない。
それで、この塔(集成閣という名)を指して、
キチガイ楼」
と、これは侮辱ではなくって、ちょっとした愛称のつもりで、そう呼んだりもした。



亜公園は、集成閣を中心に置いてその周辺に数多の店が並んだ。
芝居小屋、複数の料亭、鮨屋、牛鍋屋、小間物屋、玩具店、喫茶店、写真舘、西洋式理髪店などなどなど…、新造された亜公園内に集積回路のようにミッチリと…、今でいうモールとして運営された。
開業から数年は押すな押すなの人出だったようで、事実、後に儀太郎は、
「たった2年で建造費が回収できました」
と、自身がもたらした効果を自慢するでもなく、そう苦笑されたようだ。


この亜公園にはテーマがあった。
おそらく日本初のテーマパークがこの亜公園であった、とも思われる。
それは、菅原道真だ。
神町(天神山)には、はるか昔より、太宰府に流される菅原道真の一向の舟が休憩をした場所と伝わっている。(当時は海とも川ともつかぬ場所だったが、そこだけは島のように浮き出ていた。だからまんざらにウソバナシと云いきれない)
ま〜、だから天神山の名がついたワケでもあるし。


以後、天神山にはそれにまつわる祠があった。(らしい)
江戸時代になって、池田家親戚の鴨方藩の屋敷を設けるため、天神山は"開発"され、鴨方藩邸がそこに置かれた。
祠は、岡山神社に移動、合祀されたようである。
(現在の同神社内にある天満宮がそれだ)


そういう永い歴史的背景のある場所での娯楽施設に、テーマとして菅原道真が選ばれた。
亜公園が菅原道真ゆかりの場所であることを示すため、園内に天満宮が新造され、それは岡山神社天満宮に正面を向けるカタチで設置された。
そして各施設にも、ちなんだ名が与えられた。
菅竹楼。菅松楼。菅梅楼。菅梅堂。天神茶屋。天神座。如水館(写真舘・現在の表町のアサノカメラ)などなど。
(如水の名は太宰府天満宮を再興した黒田官兵衛のこと)…。



天神茶屋では、「三子ぜんざい」を売った。浄瑠璃「菅原伝授手習い鑑」に登場の三つ子から名をとった名物ぜんざい。
梅賞堂では、「梅まんじゅう」を売った。
梅は、菅原家の家紋だ。
さらには、亜公園内天満宮には、文字のない石碑が建った。
それはヒトメで硯(すずり)と判る巨石だった。
菅原道真=学問の神=習字の熟達。
明治の方々は、この石碑に手をあわせ、漢字の習得と達筆を願った。
以上の通りながら、しかし逆に「テーマがあります〜!」とは声高にしなかった。
おそらくは、菅原道真による宗教色が濃くなり過ぎることも注意していたようである。


ここでもう1つ付け加えておくが、亜公園は片山儀太郎ただ1人が造ったわけではない。当時の上之町界隈に進出した新たな商人としての若者たちが、
「面白いコトしょ〜や〜!」
と、儀太郎の元に集ったらしき…、なのだ。
その中には、笠岡方面からやってきて「細謹舎」という出版社ケン本屋をはじめた北村長太郎がいる。アサノカメラの初代店主・中塚秀太朗がいる。西郷隆盛が没したさい「拳骨せんべい」なるモノを販売してヒットさせた葛和某もいる。三好野花壇(今はキティちゃんのお弁当で有名ね)の若林カネもいる。
そして、当時の地域の中心であった岡山神社の神主たちがいる…。
これら方々が一同に介して亜公園を造りあげた。
ちなみに、亜公園とは「後楽園に亜(つ)ぐ」という意味で、これは当時の県知事(県令)が命名した。



さて、以外な事実だけど…、この亜公園の開業と同期するように甚九郎稲荷が現在の場に設けられている。
それまでは道路の真向かい、今は駐車場になっているあたり(当時は不動貯金銀行の裏にあたる)の町内集会所脇に設置されていた。
江戸時代、内堀に二之橋(甚九郎橋)という橋があって(島村写場の裏付近)、その傍らに祠があったのだけど、堀の埋め立て時、光藤亀吉たち当時の上之町の若者がそれを移動させて祀りなおした。
でもって、上之町は江戸期を通して大火を出したことが少ないから、「火除けの神」とした。
これが甚九郎稲荷のスタートだ。
たださほど立派なものでは…、なかったようである。
(今の甚九郎稲荷稲荷にある手水鉢はこの時のものと推察できる)
このお社(やしろ)が、陰陽道における裏鬼門の位置にあたる場所にともう一度移動するのは、亜公園が構想された時だった。



亜公園は厳密な風水思想にのっとって構築されていた。
八角形の集成閣で八掛(はっけ)を象徴させ、北に山、東に川、鬼門に岡山神社、裏鬼門に甚九郎稲荷などなど…、みっちり計算づくの施設だった。
このプランを誰が発案したかは不明だけども、当時の岡山神社神職が指示した可能性は高い。
これは平安京江戸城と同じ構造(様式)であった。





しばし大きく賑わった後、その亜公園が明治38年に閉園するや、岡山県が即座に買い戻した。
新たな行政の施設の場が必要で、県庁真ん前の亜公園はまことに都合良きだった。
議会制となって議員はいるものの、会議する場がないんで、後楽園の鶴鳴館でやってた程に場所の持ち合わせがなかった。
亜公園の天満宮があった場所に、まず最初に岡山警察署が造られた。
次いで戦捷記念図書館(集成閣を改造して造った)。
さらに県会議事堂。この3つが亜公園の後に出来上がる。



警察署を造るさい、しかし天満宮は廃棄するわけにはいかない…。
そこで県と当時の上之町が話し合う。当時有力者になっていた光藤亀吉(亜公園が開業して数ヶ月後に岡山は台風の大水で市内が水没。そのさい滞在中だった夏目金之介(漱石)を助けたのがこのヒト)や岡山神社さんたちも合議に加わったろう。
この話し合いで、甚九郎稲荷との合祀が決まった。
明治38年(1905)、亜公園内の天満宮は緒施設がそっくり甚九郎稲荷に移設された。
軒を貸したカタチながら実際は、より豪奢な天満宮のそれで全面リニューアルというアンバイだった。(移転費用は県費で賄ったろう)
以後、上之町の商店総出でもって、ここに夏の祭を定着させ、甚九郎稲荷は存在を凛々とする。
この祭(7/24.25)のために大正時代は、臨時列車が出たというくらいの動員力を誇るまでになった。
(祭は今も続いてますよ。数年前、ボクはここの福引きで自転車をあてちゃった〜ァ♡)


さてと、岡山警察署だ。
明治38年にそうやって造られ、昭和20年の6月まで40年もの時間を機能し続けた。
戦後は今の県立美術館の所にちょっと移動し、昭和40年代半ばまで東署というコトでしたね。今は原尾島にあって中央警察署という名だ。
(年数回、お世話になってる…。って、逮捕されたんじゃなくって中国銀行本店前広場でのジャズフェスのための道路占有許可を出してもらってんの。ケッコウ手続きが面倒なんよぅ)



余談はさておき、僅かな煉瓦の土台部分のみを残して天神町の岡山警察署はなくなってしまったワケながら、逆に、今の今までその煉瓦たちが遺構として在ったことにも驚く。
ホントに、何でこれに誰も気づかなかったんだろう今まで…。
ま〜、それゆえ長々と、
「大事にしたいモノがあるよ〜」
と、申している次第でした。
何でもかんでも残せばイイわけもないけど、少なくとも天神町界隈での明治の遺構、かつ、空襲に晒されたことのこれは記憶なのでもあって…、たとえば甚九郎稲荷境内にでも移設して展示してもらえたらと、切望している本日ただいま。



※ 模型 - 戦後から現在にいたる甚九郎稲荷拝殿と本殿

※ 模型 - 本来の甚九郎稲荷拝殿と本殿 この姿への復興が望ましい