甚九郎稲荷の夏まつり



7月25日夕刻。
旧知のお顔に挨拶などしている内、拝殿の中で巫女舞(吉備舞)がはじまる。
今年の若い若い巫女舞いさんの内お2人は、よ〜〜く知った方の娘さんにお孫さん。
現在の、戦後に造られた拝殿内での舞いは、いささか窮屈で、外からは見えないし…、環境がよろしいとは云いがたいけど、幼き娘さん4人が無心に舞っている姿はまったく悪くない。



袖を大きく拡げ、ゆるやかに、右へ廻り左に廻りとこれが交互に繰り返されて、白い蝶を見るような感もする。
はるか古代での巫女の舞いは次第に回転運動が速くなり、やがてピョ〜ンと飛んだりして、神さんが憑依するものだった。
「舞」という単語はその回転運動が語源で、だから英語の「Dance」ではない。
今はもう「神がかり」のそれではなく、舞うことの優美さが芸術性とあいまった方向でまっしぐらに進んでるから「Dance」に近似るけど、根ッコの「舞」は神さんの「依りしろ」だ。だからこれにピッタリな英語は、ない。
このことは後で触れる。



巫女舞の舞台となる甚九郎稲荷拝殿は老朽化している。
本殿はもっと傷んでもいる。
だからいずれ、近いか遠いか判らないけど、造り直す時は、来る。
そのさいは是非に、空襲で焼けてなくなってしまった…、明治時代に造られたオリジナルのカタチに復元して欲しいと、濃く強く、願ってる今日この頃。
カタチは概ねで判っているし、もし復元出来たなら、巫女舞も、三方から大勢が見られるようになる。



※ 現在の拝殿と本殿(模型)


前回にも書いた通り、甚九郎稲荷の本殿と拝殿は明治25年に開業した亜公園の中に造った天満宮で、明治38年に同園が閉園したさい、これを甚九郎稲荷に移動移築、合祀されたものだ。
本殿部は3層の石垣の上にあって、今のものより倍以上大きかったと推察できる。
戦前のその姿を直に見た随筆家・岡長平は「ずいぶん立派なものだった」と書いている。極度に大きなものではないけれど、3層の石垣の高さでもって見上げる位置にあったから、凛々とした威厳が出ていたよう思える。
そのカタチに戻してもらいたいと願っている。
(戦後、昭和27年あたりで、復元的模索はあったようだけど、どうもイメージ画の段階で、おそらく予算化が難しく、結局今の拝殿になったよう…、推察している)



※ 明治〜昭和戦前までの拝殿と本殿(想像復元模型)。この模型では柱や壁面を朱色で表現したが…、白色だった可能性もあって、これはただいま探査中(^_^;


出来れば、というか…、これも是非そうして欲しいのだけど、現在の入口近くに横たわっている巨岩も、拝殿横に立てて欲しいもんだ。
伊予青石の1枚岩。
2億年前のジュラ紀中期に生まれた石で日本国内では愛媛の伊予でのみ採れる。重森三玲があちゃこちゃで造園のさい使って、有名になったけど、そのはるか前にこれは亜公園のオーナー片山儀太郎がわざわざ四国から運び、スズリの形を想像出来るよう加工して同園の天満宮に設置した。



※ かつてはこのように…。


かつて亜公園では、参詣した方々は皆な、この巨岩に向けて手をあわせ、
「お勉強が出来ますように。お習字が上手になりますように…」
祈願したもんだった。
だから「硯岩」といわれた。
しかしこれは、亜公園から甚九郎稲荷に移動したさい、どういうワケか寝かされて設置された。
昭和6年のある文献には、大正期の記憶として、すでに寝かされていたことが書かれている。
だから、大正時代はまだそれが亜公園の「硯岩」と知っている人がいたけど、やがて昭和になり平成になりと世代交代する内、
「この岩、何なんでしょうね〜?」
地域の方にも判らなくなった…。
想像するに、おそらく合祀移動のさい、硯なんだから立ってるより寝かせた方が理に適うジャ〜ン、みたいなコトになったんではあるまいか。
その案は悪くなかったけど、しか〜し…、それで硯岩は神聖をなくしてしまったんだね、きっと。
だって、踏んづけるコトが出来るんだから。
そうやって、最初の記憶がどっかで途切れてしまったんだろうと、思う。
市の文化財を担当する方に問われたこともあって、シティミュージアムの相棒とそこを探求し、"再発見"したのはわずか4〜5年前だ。
亜公園と甚九郎稲荷がそれでつながった。
なのでそのさいは、キャ〜キャ〜2人して大騒ぎしたもんだ。
ま〜、自慢してはいけない。



※ 現在は寝てます〜〜。踏まないでね。


今の甚九郎稲荷の祭は祗園祭のような超ニギヤカというワケでない。
が、明治後期・大正・昭和前半までは、臨時列車が組まれるような人気の祭ではあった。
なにしろ、上之町商店街のほぼ全店が、店内を独自な装飾にして見せてくれるんだ。
いや、装飾なんて〜もんじゃない。
店内全体にディオラマを設けた。
たとえばある店では、巨大なナイアガラの滝をトタン板や紙や木材で構築し、水を循環させた。
とある洋服屋では、洋服すべてを取っ払い、日露の戦いの場面を造って見せたりした。
とある店では商っている着物を使い、源氏物語の一場面をマネキン(今のような精度高いものではないけど)を使って再現したりもし、
「あ、これは葵上の場面じゃな」
知る人をぞ納得させ、ワタシこれ知ってるよ〜と自尊心をくすぐって大いに満足させたりした。
世界の風景、時事ネタ、風物…、各店のその創意工夫を見に、大勢がやって来た。
いずれの店も照明も工夫し、だから昼より夜の、その個々の個性が際立った。
臨時列車が出たというのは結局、帰りが遅くなる人がいっぱいいたというコトだ。
ちなみに甚九郎稲荷そのものの祭の神主さんは、岡山神社さんが務めていたようだ。これは今もってそうだ。


祭では、商店は店内全体を造りモノで覆うから、当然、商品は売れない。
でも祭は2日間のみ。商売二の次で良いのだ。
自腹をきって、そうやって上之町の名を広めることが大事だった。個々の商店が個々に造りモノ(ダシ)を演出しつつ、その同時多発でもって上之町への次なる集客こそが狙いであって、そこに上之町の若い商店主たちの連帯があった。
だからこれは、甚九郎稲荷を核にした、今でいう「地域おこし」イベントのさきがけなんだ。



残念ながら、今はそのような町内総がかりでのダシはない。
桃太郎通りの拡張や区画整理でもって上之町は、表町と天神町に二分されてしまった…。
でも、祭は祭だ。規模よりは継続が要め。
空くじなしの福引きが今も昔も大人気。
数年前にはボクも特賞をひいて、自転車をもらった。
ま〜、それはどうでもいい。


しかし、祭ゆえ…、皆さん、鈴をジャラジャラ鳴らす。
ちょっとやかましい。
あれは本来、(あくまで本来ですよ)あんなふ〜に鳴らすもんじゃ〜ない。
そもそも神社の神さんというのはカタチがない。仏教のような神さんのカタチをした像がない。
甚九郎稲荷のような天満宮、すなわち菅原道真ゆかりの社(やしろ)にも、道真の木像などはない。
神さんにカタチがないんだね。
で、神さんは、神社という場に「やってくる」もので、それが何かに憑依といったら気味悪くなるけど、とにかく「依(よっ)てくる」。
お社にやってくるわけだ。



古代には「さなき」という道具があったようで、漢字では「鐸」と書く。
小さい銅鐸のようなカタチをしていて、中は空洞。そこに「舌(ぜつ)」というのが付いていて、風が吹くなどすれば、それが鐸にあたり音がする。
その音に何かが、この場合は神さんがやって来たと解釈というか知覚をしたらしいのが、始まりだ。
これが次第に変化して今の神社の鈴になったわけなのだ。
だから本来は、今の祭や正月のように訪問者がガラガラジャラジャラ賑やかに鳴らすもんじゃ〜なくって、その鈴が勝手に鳴るのを人々は待っているもんだった。
鳴らせて無理矢理に神を呼ぶんじゃ〜なく、「依ってくる」のを待つ場が、拝殿だった…。
鈴を鳴らすための縄は、「よりあわせ」てあり、注連縄(しめなわ)もまた「よりあわせる」べくネジってあわさっている。今は漢字では「撚(ヨ)り合わせ」と書くけど、元をたどっていけば、「依(ヨ)りて会わせる」という意味が出て来る。
古代の巫女が舞うことによって神さんを招いて会わさり、憑依してもらったように、鈴もまた、こちらが鳴らすもんではなくって、やって来た神が自ら到来を音で告知する装置だった。
だから古代の神社というのは「待機する場所」だったといっていいし、それには「神のやって来る領域」という"区画概念"も含まれた。
それが「境内」だ。
ちなみにボクは高校生の頃まで、これをサカイウチとおぼえてしまっていて、何度か恥をかいた。というか、恥をかいてることを知らなかった。ま〜、今は立派に育ったんでケ〜ダイと自信ありげに口にする。


今の甚九郎稲荷の拝殿は立派とはいいがたいけど、基本のフォーマットはキチリ押さえてある。
拝殿の奥側が少し出っ張っているが、その出っ張りが幣殿に相当する。注連縄が張られ紙垂(かみしで)の飾り物があるので判る。



※ これはお正月モードの甚九郎稲荷の幣殿。シンプルなのが良いです。


で、「依って」くる神さんはどこに到着するかといえば、それが本殿だ。
アンガイと、拝殿の後ろに本殿があるのを、これを知らない人がいる。ぅむむ。← ケ〜ダイを読めなかったヒトがウムムなんて〜いっちゃ〜イケナイけど。



※ 明治〜昭和戦前までの甚九郎稲荷本殿(想像復元模型)


拝殿・幣殿・本殿の四方には木が置かれる。結界としてのそれが境目なので、「境木(さかき)」といい、今はこれを「榊」と書く。
こうして、神さんのおわす領域が決まるわけなのだ。


新たに家やビルを建てるさい、21世紀の今もまずは神事をやるけど、地所の四方に置かれているのが、その「境木」だ。
そうやって神さんに向けて領域を示し、神主が祝詞をあげ、神さんに「依って」もらい、家運を願ってるワケだ。
なので、ビルが建っても、その屋上に小さいお社(やしろ)を置いてることがよく、ある。
たとえばこの岡山だと、天満屋本店の屋上がそうだし、竜操整形病院の屋上もそうだ。
神さんに、「いつでもおこしください」と、いわば空港の滑走路みたいに受け入れオッケ〜の気持ちを見せてるワケ。
ハイテクITの時代とはいえ、こういうのはイイね。
古臭いなんて思ってはいけない。
「これが日本だよ〜ん」
と、誇れば良いんだ。「舞」も含めてね。
というか、そこに日本の"個性"があるのだし、そこにボクらは在(い)きてるわけだ。



さてと…、巫女舞が終わって神主氏が祭事の終了を告げた直後に雨になった。ま〜、良いタイミングだったけど、祭の記録を撮ってらっしゃる島村写場さんはカメラを濡らさなかったろうか?


余談だけど、さて、今年の甚九郎稲荷の福引きは…。
はい。
数年前の「特賞」の自転車ではなくって、トイレットペーパー×6ケでありました。
外れがないのがイイですな〜、甚九郎稲荷。