旧家探訪

ありがたいお誘いに乗っかって、旭川沿い、出石町のN邸を訪問す。
旧知の仲間、新規な仲間、併せて9名。大所帯での訪問になってしまったけど、良いものを観た嬉しさ満杯。
大正前期に建てられ、戦火をくぐって今に残った旧家。
昭和20年6月の空襲で岡山神社や周辺家屋は燃え上がったけど、鶴見橋そばのこの邸宅と数軒が奇蹟的に焼けず、それゆえ空襲後、同家の主人が門戸をオープンにし、焼け出された近隣の方々が短期ながらも、仮り住まいとして屋根の下で眠れたという有り難い逸話も、残る。



西側の路地沿いの塀に覆われた佇まいに比し、旭川に面した東側は広い窓で覆われる。
旭川の流れをはさんで真向かいに後楽園。それを室内から眺められる最良の立地と窓の配置。
鶴見橋の往来もまのあたりに、豪奢な料亭の愉悦空間、その眺め…、といいたくなるけど個人宅。



北東の角っこには茶室もあって、しかもその造作、壁の1部は旭川の土手に沿って曲面で塗り壁されていたりと…、既成の枠も越えてのオリジナルな佇まい。いやはや素晴らしい。
Before&After - 巧みのワザが光る…、などとテレビの中で云うところの巧みの師匠などおそらく束になってもかなわない、大正期の無名ながらも精度高きな意匠が随所に。



案内くださったN夫妻の丹念な解説に恐縮しつつも、夫妻のこの屋敷への愛情がヒシヒシ伝わる。
クーラーはない。けども窓を開けるや、旭川からの風が室内に入る。心地良い。
夕刻ともなれば灯りに誘われ、蚊、小さな蛾、ヤモリ…、といった土手の水辺に住まうものたちが室内に入りこんで、
「いささか困る」
という次第もあるらしいけど、窓の開放と共に入る川風の涼みはクーラーのそれでない天然の恵みとして皮膚が悦ぶ。



※ Mちゃんのお尻を撮ったワケではない。普段見えない場所にどのような意匠が施されているかを一同で観察してるの図。

※ 重森三玲もこの複雑な組板をやはり眼に届きにくい天井に用いてたなァ…。かつてはこういうチラリズムなオシャレがあったワケだ。


けどもN邸はまもなく、来年か次の年…、失せてしまう。
岡山県+国土交通省の河川改修計画がため、引っ越し、撤去を求められている。
大雨のたび、昔から岡山市では、この出石町付近に赤信号が灯る。増水時に土嚢を積むというコトが繰り返されてもいる。
明治25年。亜公園が開業して4ケ月後の7月、台風の大雨でこの界隈の2カ所が決壊。岡山市街が信じられないレベルで水浸しになった。
たまたま岡山にいた夏目金之介(漱石)は、そのため滞在先から避難を余儀なくされる。
避難誘導の指示を出し、暗い雨中、弟を金之介の元に駆けさせたのは上之町の光藤亀吉だ。
その避難先はどこか?
2晩を亜公園の事務所か、あるいは県庁(現在は天神山文化ホール)あたりで過ごしたコトは確かなれど、どちらであったか判らない。



※ 亜公園想像復元模型。右の手前の家屋が亜公園事務所。
この建物の真ん前、道路を挟んで右側に県庁があった(現在は県立美術館と天神山文化ホール)


光藤の避難誘導なくば、東京からの客人・金之介は土地勘のない岡山市街の増水のさなか、落命の確率がアップしていたろう。実際、大勢が亡くなっている…。
漱石のヒストリーの中、このエピソードはあまり語られていないのが残念だけど、ともあれ彼は避難して助かった…。(その後、市内の水が数日経ってもひかず、弓之町の光藤家の別宅に移動したものの、1階の床上に水が残ったままで、彼はそこでひどい下痢に苦しむ。やむなく予定変更。正岡子規のいる松山に旅立った)



※ 岡山でエライ眼に遭ってちょうど1年後、明治26年7月に撮影された金之介。この頃に、後にトレードマークとなるヒゲを生やしはじめたようだ…。


この大水害で水没しなかったのは、上記2つの施設と岡山神社岡山城天守閣のみだった。
だからおそらく、その時は、3つの敷地内は避難した人でいっぱいだったに違いない。ほぼ真っ暗闇(電気はまだないよ)の中、大勢の避難者の中に、後の漱石先生もいて、我が輩はネコろんでる場合じゃなかったのである…、なワケなのだ。
天守閣は廻りが水没で孤立して寄りつけないし、まだ一般開放されていない)


ま〜、そういう水害が、明治〜昭和と何度も何度も繰り返され、今やっと、旭川土手上の複数の家屋には立ち退いてもらい、防波堤というか堤を新たにして、大規模水害から街全体を守ろうという構想が進行中なわけだ。
そこはよく判る。なるほど確かに必要に思う。
けど…、しかし、こうして旭川沿いの築後100年越えのお屋敷に立ってみると、いかにもその"処置"が口惜しい。



建物そのものは、どこかに移築出来るかもしれない。
けど…、景観は変わる。窓から旭川も後楽園も見えなくなる。
N邸の佇まいは、その景観と一体のものだ。窓からの眺めこそが要め…。
これを失うのは、ずいぶん惜しい。というより、岡山という街にとっても損失だろう。
こたび同行の福田忍氏は過去何度かN邸を訪れ、昨年の6月には毎日新聞に記事を載せてるけど、彼女もこう書いてる。

貴重な昔ながらの家並がまた1つ消えるのかと思うととても寂しい。今のうちにしっかり瞼に焼き付けておかねば…

まったく同感ながら、そうやって瞼に記憶する以外に手のない虚しさもまたかなり味わって、見学の満足と共に悲哀もまたたっぷり沁まされた。


見学後に応接間で一同お茶を頂戴しつつ、具体を聞く。
突然、リアリティの前線に送り込まれたようなハナシ…。
築後100年越えであっても文化財指定のない家は「査定ゼロ」。
1円の価値もないというのが、立ち退きを要求する国の姿勢なり。
苔むした庭のカタチよき石塔などは、カタチやその来歴は無視で、重さでのみ換算づけられる。
重量36Kgなので、それを廃棄業者に依頼して捨ててもらうには、何千円…、という計算法。
そうやって立ち退きのための額が決まり、もし家屋を解体移動させようと考えるなら、そのための費用は受け取ったお金で、立ち退く側が支払ってヤリクリしなきゃ〜いけない。
家屋を移転移築出来るような金額じゃない。とどのつまり、どこか他所へ引っ越して、今の生活水準を下廻る生活を今後送れ…、というに等しい次第なのだ。
N邸に住まう夫妻は、いま、その選択ポイントに立たされ、苦悶を背中にしょっている…。



見学の終わりに蔵(くら)の中も見せてもらった。
大正期の、同邸に来客あったさいのお膳などが木箱におさまり、そっくり綺麗に保存されている。
それらは、この"場所"の思い出でもあるはずだし、価値あるもののハズだけど…、国の立ち退き要求の方針にそれらは含まれない。
個人の"思い出"など、ま〜るで立ち退き費用に含まれないんだ。
河川氾濫から街を守るためにN邸を壊すのなら、そのための「礼節」もまた厚くすべきのハズなんだけどな〜。



※ 暗がりをiPhoneのライトで照らしてくれた考平ちゃん。このN邸の道路を挟んだ真ん前の家(今はない)でオギャ〜と産まれた人なので、こたびのツアーじゃイチバンにノスタルジアにひたってた。(^^)/


見学後、Mと共に岡山神社さんと打ち合わせ。
能と茶の話が出て…、見てきたばかりのN邸の茶室が瞼に浮いた。
後楽園には多数の茶室があるけれど、N邸のそれは後楽園そのものをちょっと見下ろす位置にあるんで…、いささかのおかしみもおぼえた。
最近の学術研究で、足利義政が造った銀閣寺は月を観る施設として位置づけられ、じっさい、そう機能するように諸々が配置構築され、白壁にはミョウバンが練り込まれてガラス質的にキラキラ反射するといった、月の微光をも捉えようとした空間だったというが、いみじくもN夫人が、
「お月見の夜は、東空の月が川に映って、そりゃヨ〜ござんすよ」
と告げてくれたのを思い出した。
東空のホンモノと川面に反映する揺れる月。この2つを同時に愛でつつ…、が出来る場所。
後楽園の茶室をその点で上廻るビジュアルを、N邸では堪能できるわけだ。
そういうのを無視して家屋に関して「査定ゼロ」と通達する国だか県だかは、何ともクールというか無慈悲というか…。
庭の古びた灯籠をキログラム換算しちゃう「文化国家」。
レベルが高いワ…、と云わざるをえないねぇ。