西行と富士山 〜ちょっと岡山プラス〜


昨日、概ねでこれ以上は通院しなくともよくって後は自宅療養で…、というコトにまでこぎ着けた転倒事故の後始末。
まだ口を全開に出来ないし、下唇半分が腫れているし、両足も痛むけど…、通院に終止符がうたれるのは嬉しい。(ホントは次週もう1回あるけど)
何といっても、断酒してたのを解禁出来たのがメチャ悦ばしい。
良いね〜、オチャケは。



と、以上とはま〜るで関係もなく、またぞろ大昔に思いを馳せたので一筆。


西行、の名を知らない人はあんまりいない。
でも、いつの時代の僧だったか何をしたヒトだったか、となると、ボクもせいぜいが彼に、

鬼の、人の、骨を取り集めて人に作りなす例、信ずべき人のおろ語り侍(はべ)りしかば、そのままにして、ひろき野に出て骨をあみ連らねてつくりて侍りしは--------

メアリー・シェリーのはるか前に人造人間の創作があるのを、澁澤龍彦か誰かのエッセーで記憶している程度だった。
西行のは、鬼とヒトの合体だから、シェリー創作によるフランケンシュタインの怪物より空想の歩幅が大きい。
それで憶えてた。


あるいは、芭蕉が『奥の細道』の何章だかで、自身の句ではなく、

終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて 月をたれたる汐越(しおこし)の松

この西行の句をもって他に云うことはない…、と自身の句を提出せずに章を閉じてみせ、かつて同書に接したボクは、
「ふ〜〜〜ん?!」
そういうワザもあるんだな…、などと思ったりさせられたりもして、憶えてた。



西行は平安末期から鎌倉時代初期をいきた人。
芭蕉をして引用させるほどに後の江戸時代の句界じゃヒーローだったよう、思える。
公家に産まれながら23歳で出家。全国を放浪しては和歌を残した。
諸国を遍歴しつつ物思いするという最初の事例のような人だったから、後にそういう漂白の旅に出るコトを"西行"というようになったそうだが、彼は何故、公家のラクチンな生活を捨ててそのような道を選んだか?
失恋が出家の原因との説があって、もしそうなら、かなり一途でナィーブな真面目青年だったんだろう。



いまから831年前、このヒトが文治2年(1186)に記したものに、

風になびく富士の煙りの空にきえ ゆくえも知れぬ我が思ひかな

というのがあって、しばしまったく気づかずに、やはりナィーブなヒトだなぁと感想したきりだったけど、「富士の煙り」というのは、噴煙じゃなかろうか…、治癒しつつある唇を舐め舐め、そう感づいた。
「おっ、こりゃ発見」
と、富士山の噴火史を調べるに、規模の大きいのが、864年、937年、999年、1033年、1083年にあった。
864年と937年のは大地震を伴う巨大噴火で、とんでもない量の溶岩がドドンパ〜と溶出し、広範囲がメチャになり、これで今の地形が作られた。青木ヶ原樹海などがそれだ。
想像するに、当時、富士山一帯は焼けて黒々とし、タマゴが腐敗したような硫黄臭に満ちた、黄ばんだ岩々ゴロゴロの異界であったろう。



西行が旅した1186年は、1083年大噴火の100年後だけど、おそらく…、終息しつつも、まだ富士山は不安定なアンバイだったんじゃなかろうか?
阿蘇山みたいにズ〜ッと絶えず白煙があがって、近寄れば異臭が立ちこめていたと、そう解釈していいかと思う。
だってね、そうでなくば西行とて"富士の煙"と書かないでしょ。


だから彼がいきた頃は、富士山は当然に行楽できるようなものでなく、いつ怒り出すか判らない危険な山という気分が、その頃はズ〜ッと常態化していたんじゃなかろうか。
我が国イチバンのと誇る山ではなく、怖れの最大対象としての魔の山でもあったと。
それあってはるか昔より、富士(大昔はアサマとよんでいた。いまは浅間と書いてセンゲンとよむ)は信仰の対象でもあった。
富士山本宮浅間大社を含む一帯が、「富士山−信仰の対象と芸術の源泉」として世界遺産に登録されたのはついこの前だ。
864年、937年と大噴火を繰り返すたび、鎮護のため浅間神社は「社格」がアップした。
社格」は明治時代まであった制度で、祭事のたびに国から経費が出る仕掛け。その"格"によって支給額が違う…。
日本の神さんというのは、厄介な存在を逆に祀り上げて平穏を願う対象にしちゃうという、なかなか気転効いた気配りで成り立ってるコトが多い。例の菅原道真=天満宮がそうだね。怨霊化した道真の鎮めとしての天満宮…、学問の神さんに"成り下がった"のは江戸時代からだ。



※ 富士山本宮浅間大社

(九州のアサマと関東のアサマがなぜ同じ名なのかは、かつて寺田寅彦が弥生以前には広くアイヌがこの国に分布し、それは火山を意味する彼らの言葉という説を発表してるけど歴史の学会では物理学者(地震の専門家でもあったね)が何を云うかと無視しちゃって今に至ってるようだけど、ね…。ちなみに「天災は忘れた頃にやってくる」という名言はこのヒトが発したもの)


ともあれともあれ西行は、その煙の不気味な不穏に、旅の、明日を知れぬ不安とを重ね、さらに、それゆえにほのかな気負いを混ぜて、
「ゆくえも知れぬ我が思ひ」
と詠ってみたんじゃなかろうか。
ボブ・ディランに先んじた、「Like A Rolling Stone…」な心情がここにあるわけだ。


旅館があるワケじゃない。
毎日の食事は道中の民家への托鉢に頼るしかない。
時に丸1日、何も食べられず、川の上澄みを飲んで川辺で眠って疲れた足をさする…、というコトもあったんじゃなかろうか…。
くじけそうな気分の数歩前という暗澹を、彼は黒だか白だかの煙をあげる富士山に重ね見たような気がしないではない。


富士山を迂回してトホトホ歩いたのは、東大寺再建の寄付を募るために奥州藤原氏の元に出向くためだった。
東大寺は1181年の平重衛の焼き討ちでボロボロ。大仏殿は焼け落ち、大仏もかなりが溶けて、
「ひで〜ことするなぁ」
満身創痍でゼ〜ゼ〜喘いで…、復興のさなかだ。
それで多数の僧が全国に勧進し、寄付を募ってるというワケだ。西行もその1人だった。
だからこの旅にかぎっていえば、漂白のそれではない。おぼろで微かにも目的があったワケだ。けども1人旅、不安が背中に張りついている。


僧は皆な、フトコロに勧進帳東大寺復興のために働いてますという証明書みたいなもの)をいれ、手には杓を持ち、胸元の鉦鼓(しょうこ)を鳴らし、
「尺布、寸鉄、一木、半銭、なにとぞ大仏再興に御寄進を」
奉加を乞うのだった。
このときは、西行もそのスタイルでの旅だったろう。


同時期、この岡山には重源(ちょうげん-俊乗坊)が復興資材の調達にやってきた。
再建計画の大物というか中心人物、今でいう最高運営責任者(CEO)だね。



重源上人坐像レプリカ(大阪府立狭山池博物館所蔵。原品は新大仏寺所蔵で重要文化財


彼は龍ノ口山のすぐふもと、今は湯追(ゆば)温泉の真後ろに位置する浄土寺を基点にした。
(上之町や中之町といった今の岡山市街はまだなく、界隈の中心となるのは龍ノ口山の南側、旭川の東側だった)
同寺からは東大寺の刻印のある瓦などが出土してる。
おそらく重源は1人ではないだろう。複数の僧を伴い、その内の誰かを"支店長"にしたはずだ。
支店長を置き、彼は山口方面へ出立した。仏殿に必要な40mに近い巨木は当時をして既にその界隈にしかないんで…。



この寺は湯迫温泉の背の高い建物に阻まれて、まるで存在そのものがないホドに…、そばの道路からもまったく見えない。


何故いまそこに湯追温泉(現在の施設は背後のお寺とは何の関係もない)があるのかといえば、重源ないし"支店長"が、"医療施設"として大規模な湯治場を作ったから。
湯につかって肩をほぐした方々がナンボか包んで寄進をするだろう。その寺銭でもって伊部界隈で瓦を焼かせ、奈良に送り出してたわけだ。
銭でなくとも、例えば藤蔓(つる)のようなモノでも歓迎だ。
重機もトラックもないし、ましてロープなどどこにも売っていない。
建造のための巨木は50頭を越える牛が引く。それで長く頑丈な蔓が大量に必要だった。焼け野原の奈良では調達出来ない資材だった。
浄土寺界隈を真面目に発掘調査をすりゃ、けっこうなお風呂の遺構が出てくるはずだけど、残念ながら手つかずだ。(源泉と思われる遺構というか井戸は見学できる)
重源という人物は立派な僧侶というより、どこかガムシャラな土木系営業部長の感がないことはない。
「寄進しない場合はアンタは地獄に堕ちます…」
そんな脅しに近いというか、脅しそのものでもって仏殿再建に邁進、"営業活動"した形跡が窺える。
ま〜、こういう押しが強く、束ねるパワーのある人物がいなきゃ、費用やら資材を集めるのは容易じゃなかったろう…、心細さをうたったナィーブな西行法師とはそこら辺りが違う。


長いから…、つづきにする。(^_^;