明治のクリスマスの頃

明治時代の12月24日や25日を…、思う。
一応は宗教の自由が解禁された時代。とはいえ、ごくごく1部キリスト教徒の家庭以外、聖夜を祝う慣習などない。
だから当然、ケーキもプレゼントもない。
それで瞬間に、「あら、寂しいわね」と思ってしまったけど…、慣習にもなっていないんだから寂しいなんて気持ちは湧いてこない。あと1週間で年が変わるというコトで妙にソワソワした感が増幅してるだけの2日だったに、違いない。



一般家庭向きにサンタクロースが本で紹介されたのは明治31年らしい。
亜公園が開園して6〜7年後だね。"さんたくろう"というのが可笑しいし、個人的には…、Kurose歯科医殿とマ〜ちゃんを白味噌で和えて煮詰めたような顔も好もしい。


ま〜、サンタが苦労してるのは置いといて…、先の講演でも解説した例の亜公園は、明治24年の10月より工事がはじまってる。
落成しオープンしたのは翌年の3月21日。
7階建ての集成閣をはじめ、敷地内の夥しい建物いっさいが、わずか半年で出来上がってるワケなんだ。
建築の専門家でないボクは、その僅かな期間が怪しく思え、訝しんで、
「そんな短期間であれだけのものが出来るワケね〜や」
ず〜〜っと疑問視していたんだけど、明治期家屋の専門家でらっしゃるノートルダム清心女子大のU教授の部屋で懇談したさい、氷が溶けるみたいに謎が解け、ちょっとした歓喜を味わった。
江戸時代から明治にかけての、建築における職人らの気質を教授から聴いて、なんだか炯々と眼に映えるような鮮烈をおぼえて、眩くもあった。



亜公園の模型写真(ごく1部) 集成閣と天満宮


以下は自分宛のクリスマス・プレゼントとして記述する。(苦笑)


お江戸の職人は往々にして、
「宵越しの銭は持たね〜」
とか云って、稼いだ金をその日の内に散財しちまうというのが、ま〜、よく聞くハナシじゃ〜あるけれど、それは何も江戸という地域限定じゃ〜ない。
地方の職人、この岡山もそれは同じ。
で、彼らを代弁して云うなら、稼ぎを一夜の呑み喰いに費やしてしまったワケではない。
それは誇張というもんだ。
彼ら職人は、例えて云うなら、500円で請け負った仕事を、600円だか700円だかな経費と手間を費やして仕事をこなし上げ、クライアント側の、発注より素晴らしい出来具合いにビックリ喜んでる表情に向け、
「ま〜、こんなもんでさ〜」
さも平然と装う…、という次第での"散財"なのだった。
当然に自分へのご褒美として、毎夜に呑みもするから…、余計に金はなくなる。
職人の女房には迷惑このうえない。家に金を入れずで、1人、女房殿は苦労する。



※ 明治23年に撮影され彩色された大工職人たち。手前の2人はまだ子供の年齢なんだろうけど見習いをやってるワケだ。


古今亭志ん生の『大工調べ』の可笑しみを持ち出すまでもなく、かつての左官や大工ら職人全般は、徹底して、
「いい仕事してますね〜」
な、誉れこそが生き甲斐と云ってもいい。
そこに"粋"をみ、それが"生きる"と同義であったよう思える。
思えば、最近ブームになってる北斎だけど、はるか20年前にマンガ家の杉浦日向子北斎とその娘・お栄の魅力を『百日紅』で、実に凛々と描いて、職人の気質を存分に見せてくれてたなぁ…。



江戸期、明治期の職人気質というのは、まず競争原理の中に立っていて、職人同士で競いあっている。(北斎たち絵師もそうだ)
より良い仕事を達成させて仲間から、あいつはスゲ〜…、と思わせたい。
その上に、施行主の依頼を上廻る、いわばビックリさせるような仕事成果を見せたくって、いけね〜。
そういう性質(たち)なんだ。
だから、手間を惜しまない。
当然に自分が納得する仕上がりでなくっちゃ〜いけない。
自ずと経費もかさむ。
赤字なんぞはマッピラ御免だけど、ゼニ勘定よりはるか上に、「いいワザをみせたい」があるから、かなりの確率で収入より支出が多くなる。
納期をキッチリ守って、その期間中にビックリのワザを見せるのが、当時の職人というものらしい。
実にヤッカイな性質というか気質なのが、ま〜、職人なのだ。



※ 亜公園の模型写真。これが全体ね。


なので、
「多数の家屋ながら亜公園は半年で完成したでしょう」
と、教授はほぼ断言した。
むろん当然、今のような、労働時間の制約はない…。場合により夜明けから陽が陰るまでと、1日8時間なんて〜制限でない時間軸の中でもって、自身を発揮させていたワケなのだ。
便利な電動工具はない。
トラックも重機もない。
あるのは長年使い続けた手足の延長みたいな小さな道具類のみ。
徒弟制度だから、棟梁たる彼の下、何人もの配下がいる。
その配下もことごとく、良い仕事をば見せようと懸命だ…。
ましてや年が変わろうとする1週間ほど前の12月24日や25日は、当時の職人さんらは、自身の中で"年内にはここまでヤッちゃうぞ"の意気込みに燃えてる頃と思え、夜明けから夕暮れまでノコを引き、金槌を打ちと…、がんばってたに違いない。


ましてや亜公園オーナーの片山儀太郎は若いながら県内最大規模の木材商だ。
このオーナーの眼を誤魔化すような作業は出来ないし、当然、誤魔化すような気もない。むしろ高いプレッシャーをおぼえつつ、それをはねのけるだけの良い仕事をと…、励んだはずなのだ。


亜公園建造の場合、中張亀吉という大きな棟梁がい、その下にサブの棟梁がいて、その下に多数の大工や左官や屋根葺き職やらやらがいた。
それが100人なのか200人なのか、あるいはもっと少ない人数だったかは判らないけど、凍えるような寒さの中でトンテンカンと普請している図は想像できる。


数少なく現存する当時の亜公園の写真をば眺めるに、どの家屋も立派で豪奢で、安普請の匂いは微塵もない。
亜公園閉園後に、集成閣をはじめ幾つもの家屋が他所に移されて転用された、という事実からも、亜公園の家屋が良い姿カタチであったと断言出来る…。当然に使われた木材も良いものだったろう。
たとえば亜公園内にあった管之家(常磐木)という旅館ケン風呂屋の家屋は、新造されつつある宇野港の、数多く必要な港湾事務所のメダマの1つにと買われ、再組み立てされた。



※ 常磐木の模型。湯屋を兼ね、県北の鉱泉を宇甘川・旭川を経由、わざわざ運んで湯にしていた。ちなみに常磐木の茶席は、大獄事件で無実のままに処刑された森近運平が常連客だった。



※ 植木職人見習いのデッチ少年達が樹木を運んでる図、亜公園内にも庭園があった。(この写真は亜公園とは関係ないけど、イメージとしてはこの通りだったろう)


彼ら職人の気質を思うに、その元締めたる中張亀吉を含め、亜公園構築事業で"大いに儲かった"というアンバイではなかったような感がする。
亜公園開業後にオーナーの片山が中張に運営の1部を任せているトコロに、その顛末が見えもする。
良い仕事をしてくれた…。なので、それに報いるために、入場収益の1部を中張氏に入るようにしたオーナー片山の気配りも何だか淡く見えてくる。開園と同時に亜公園では『亜公園漫録』という岡山初の観光(景観)ガイドブックを細謹舎から刊行したけど、その著作料が中張氏に入るようにとか。
昨今のリニア談合でもって利益分配していたと糾弾されてる大林組などの建築業とは、ど〜も営みの基本が違っていて、いっそ明治期の彼らのスピリッツの方がとてもクリーンで美しく…、おもえる。
当時の職人の多くは、背や腕に彫り物をいれてるんで一見は、怖っぽいけど…、その姿の内側には良性な職人気質が熱く躍動しているワケなんだし、またその誇りの示し方としての彫り物なのだから、眉をしかめるようなもんじゃ〜なく、むしろ文化的諸事情の中にしっかり定着した美しいものだったと思うのがよい。



ともあれ、大掛かりな複合娯楽施設の亜公園は、わずか半年あまりで完成したワケなのだ。
たいしたもんだ。明治の職人たちのガッツポーズが見えるようで、ちょいとそこに参加し…、振る舞いの御神酒など、お流れを頂戴したいような気も、する。


片山家ご親族から直に聞いたハナシだけど、片山儀太郎は開園後は船着町(京橋)の自宅から亜公園まで、紋付き羽織って馬で通ったらしい。
当時とて、乗馬での通勤はそれほど実例がない…。
これはどういうコトかというと…、彼の自信と誇りをそうやって彼は、見せたかったんだろう。良いものを創り上げての堂々たる気分が物静かなこの人物をして、昂揚させて、そうさせたに違いなく、亜公園は岡山市民への驚きのギフトであると共に、いわば彼自身による彼への大きなプレゼントだったという気がしないでもない。