この前の土曜、ダブルブッキング。
城下公会堂での太田徹哉トリオのライブと、我が講演がらみの打ち上げケン忘年会が重なっちまった。
身体が1つしかないのは不便なり。
という次第で、ライブ会場の椅子並べやらの下拵えのヘルプをし、リハーサルをば眺める。
やがて陽が暮れ、ドアの向こうではチラチラと開場待ちの人の姿。
本来なら方々を迎える役なのじゃ~あるけれど、刻限になって場を辞し、別場所へとスッ飛んでった。
で、その打ち上げケン忘年会は、「学芸会仕様」。
某居酒屋借り切って、楽器を抱え、全員でチャカポコ唄ってしまお~、というお楽しみモード全開な催し。
いわば内輪のライブ。シークレット・ギグというほどではないけど、ま~そんなカタチ。
なが~い付き合いながら、共に唄ったり歌声を聴いたコトもなかった方々との、それゆえの「学芸会仕様」。
「え? あのヒトが、その歌を? へぇ~!」
学習発表会的なノリやらサップライズも含め、意外なほどに楽しいコトになってった。
途中より、誰も知らないオッチャンが混ざったりもして、これには大いに弛緩したけど笑って受け入れた。
この1年というか、近来、チ~~とも楽しい世の中でないのはご承知の通り。
今年の漢字に選ばれた『災』を拡大解釈すれば、政治も経済もヒトの心も……、保守を通り越した無様な保身やら強圧やらやら、『災』はまことに適切なチョイスとも思えるけど、良いコトと悪しきコトのバランスがとっくに崩れちゃって、さっぱりわやのしんチャンなのだから、
「たのち~ねぇ」
なんて浮かれてる場合でもない。
かといって暗い顔でブツクサ不満たれてるだけじゃ余計マッ暗け。喜怒哀楽4文字の、最初と最後の漢字2文字をば、喰える時にむさぼっておこう。
などと書くと、何だか1920年代の、いわゆる大正デモクラシーとしての若者文化の勃興と溌剌と、その後の真っ暗ケな時代の到来みたいで好ましくないけど……、悠々闊歩したモダンボーイズにモダンガールズが、流されるまま、ハタと気がつくと軍服にモンペにと姿を変えてった怖さは忘れずにおこう。
1927年(昭和2年)のモガ・スタイル。右の女史の着物と髪型最高。歩幅が大きく見えるのも好もしい。たぶん、この時、彼女は急いでたんだろう。この女史とお付き合いするなら男子とて相当に覚悟したスタイリッシュ・ボーイズでないとイケネ〜。
でも、この超絶にカッコいい彼女—— 20歳代半ばなら間違いなく明治の後年に産まれた人だ ——とて否応もない時代の流れのさなか、やがておよそ10年ほど後には、モンペ姿となって駅や街頭に招集され、徴兵された男子を見送り、「お国のため」とか連呼していたハズ……。
気がついたらもう手遅れ、というのが怖いんだ。
1930年(昭和5年)のバスクリンの広告。イラストは高畠華宵。極度な欧化じゃあるけれど、個々人の自我や自由がまだこの時点では謳われていたという証し。
大正中期から昭和初期にかけての1920年代、その10年ほどの間は、爛熟の、いわば、“楽しい学芸会“の時代だったような感がする。
その時期のオモチャ屋さんで売ってたのが、写真の石膏製のフェース像。
およそ40年ほど前、熊谷信夫氏と丹波篠山とか草津とか近畿圏外周の田舎町の玩具屋を周り、倉庫に眠ってた古いオモチャを買い集めてた時に見出したもの。
氏はその数年後に、『ブリキのおもちゃ』を刊行し、ノスタルジックなTOYSに脚光を浴びせる導火線とした。
ブリキのオモチャ―昭和20年から昭和40年代にかけての日本のブリキ機械玩具
- 作者: 熊谷信夫
- 出版社/メーカー: グリーンアロー出版社
- 発売日: 2000/08
- メディア: 単行本
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この小像がどういう用途であったか不明ながら、たとえば理髪店あたりの飾りとして売られ、壁なんぞに吊ってたんだろうとは思われるが、さほどに売れなかったんじゃないかしら? とも思って早や40年。伝統的な枠にとらわれない感覚としてのモダニズムが、オモチャ屋さんの店頭にまで風俗を映す鏡として伸びてたワケだ、かつてイットキは。
でもま~、売れなかったことが幸い。これは我が部屋でひっそり生息し、永劫のスマイルを続けてる。