カッコ悪いのなんの 

今年イチバンの冷え込みっぽい本朝。東京界隈は1970年以来…、48年ぶりにマイナスの4度ということらしいけど、ここ岡山も冷えびえ〜。
その寒気寒風の凍てつきをものともせずにペダルを廻し、朝の9時、シティミュージアムのM前館長がバイシクルでやって来る。
もちろん用あっての来訪ながら、我が自転車と館長のそれを眺めつつ、どう扱えば自転車はカッコ良いか、などなど…、早朝の濃い談義。
なかなか有意義。



それで一興。
今回は、カッコウ悪さについてを。
徒然に…。


岡山駅前の地階、一番街のスターバックス コーヒーの横を歩くと、よく眼にするのが…、窓際でラップトップを開いてるオトコの子。
岡山外のあなたの街や町にも、いるでしょ?
Macが多い。



あれは何を、してるんだろ?
訝しむよりも、可笑しみと寒〜い感じがわく。
ボクはこれを、クール・ジャパンな光景と云う。
カッコ良い自分を演出なさっての行為と思うけど、正直…、自慰を見てるようで、ヨカ〜ない。


人間だれしも、カッコ悪いコトはしたくない。
けども、70年代に早川義夫が『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』というアルバムを出してたけど…、今も昔も同じで、カッコ良くやろうとの振る舞いが傍から見るとまっことカッコ悪いというコトがショッチュウ起こる。



で、こういうのは常に我が事として思わなきゃ〜いけない。
色々な場所や状況などなど顧みると、そうすると…、何だかカッコ悪い自分が幾重と見える。
自分を客観視するのは難しいけど、たぶん、本人のみが気づいていないのがアレコレ多々いっぱい、あるだろう。
我が事を云うのも何だけど…、そも、"覚悟"せず、その場の情動でモノ云うところ、コトを起こしちゃうのがいけない。
一歩間違うとセクシャルハラスメントな嫌男(ケンオ)な空気すら、もたらす。アルコールが入るとその傾向度合いが高くもなる…。
よ・ろ・し・く・な・い


ちなみに、セクハラというような縮めコトバをボクは嫌いなんで、ここでは極力に省略造語を使わない。スマホ、キントレ、スタバ、ネトウヨ、インフラだのだの…、縮めて得があるんかしら? エッセンスが凝縮されるんかしら?
ブレランと縮めるホドに長いか、『ブレードランナー』は…。
インスタグラムはグラムが重いか…?
せっかくの生麺を即席麺にすり替えるようで、カッコ悪くうつる。



昨年に観た原田眞人監督の『関ヶ原』では、上記した、"覚悟"の上のカッコ良さという"気分"が隠れたテーマだったよう、思える。
同映画で描かれた主役級の人物はいずれも覚悟のヒトとおぼしい。
役所広司演じる下腹が異様にせせり出た家康も、対するオカダ・石田三成も、彼の配下となった女性の忍者・初芽もそうだった。
見てくれの家康は実に醜怪で奇っ怪ながら、そうであって、よ〜く考えると、アンガイと自己を貫くところが大なヒトで、まったく好きになれないキャラクターながら、ヒトのカタチとしては際立っていてそれで奇妙な魅力が放射されていた。あえてカッコ悪く振る舞うコトで逆説にカッコ良い領域に自身を持っていったヒト…、と解釈してもいい。
けども原田監督をしてうまく描けなかった"覚悟"は、敗北が判ってから逃走に至る石田三成の情動だ。
当時の風潮、当時のプライドの置き方で考えるなら、まず…、自刃だろうに、そうはせず、装束を変え、なぜ彼は戦場から逃げ出したか? それもただ1人で。
逃走の果てに再興があったと信じていたか?
まさか捕まることを前提にし、家康の本陣の門前に引っくくられて坐らされ、そこを通る緒武将どもの本音の気持ちを知りたかった…、ワケはあるまい。
その部分の心のヒダヒダ、逃走に至る覚悟の深度が映像的にうまく顕わになったとはいいがたく、ボクにはただの迷走にしか見えてこず、袋小路的刹那の遁走でもって三成の価値、強いていえば映画の価値もそこでカク〜ンと下がってしまうのだった。
捕縛後の三成が妙に毅然としているゆえ余計、筆の運びを違えたような…、カッコ悪さが残るんだ。
事実、史実としての三成はその逃走によって評価が確定しているようなところも大で、それゆえこの映画がそこの部分に何か新たな光をあたえるかもと期待したんだけど…。
(DVDが -2/7予定- 出たら再見し、感想が変わる可能性もあるけど…)



幸いかなボク自身は三成や家康の苛烈な状況を生きていないから、こうやってノウノウと書き進められるお気軽に甘んじてるけど…、ま〜、外野的には、それもまたカッコ悪りぃ〜振る舞いの典型か?
フィリップ・K・ディックが70年代に描いた、無縁な2人の人物が電脳的交錯でもってシンクロナイズして両者が破綻あるいは一方が大きく飛翔するというような状況に置かれて、ボクが三成と同期したら…、ボクは三成の心情を了解して自身もまた遁走するだろか? あるいは三成にボクが影響をあたえて、彼をしていっそう奇っ怪ながらカッコ悪くはない、あるいはもっとカッコ悪い行動にうつせたろうか…。
とま〜、勝手な空想をするのは、そうカッコ悪いことではなかろう。



最近になってやっと観たアニメーション『グスコーブドリの伝記』(2012年)は賢治の原作を大胆にアレンジしてかなり秀逸な描写が続いて高得点かと思いきや…、最後の最後、ブドリが自己犠牲でもって救済をもたらすクライマックスで小田和正の歌をながして全てをダイナシにしたのも、カッコ悪い実例とみた。
その"テーマ歌謡"でもって、映画全部がひっくり返り、眼もあてられない…。
自己犠牲という部分をあえてクローズアップせず、ブドリ君の日常を淡々と描き、その延長上でごくアタリマエの行為として彼がとった行動を描写していたから光明ありと思っていたのに、ベタベタベッチャリな歌詞でスッテンコロリン。



この映画のナレーションは柄本さんだった…。変に感情移入しない淡々としたコトバの運びが素晴らしかった。
それでフッと懐かしくなって、某BARでの写真を探した。



『不思議の国…』のチェシャ猫のような表情で故MIHOちゃんが肩にのっている。ボクの髪はまだ黒く、オーナーの頬っぺはふくよかでチャーミング。
撮ってくれたのは柄本さんの芝居を岡山で実現させたO森さんだったっけ。いささか記憶が薄い。
柄本さんは芝居を終えた直後で燃え尽きた感濃厚。役から本人に切り替えているさなかと思える。他者へのシンクロナイズから自分に戻ろうとしている表情だ。だから口数も少なかった…。
しかし、その姿、黙した彼はカッコウが良かった。役者の凄みをこの時ボクは知って、息をのみもした、
撮ってもう15年が経つ…。久しぶりに眺め、燃焼、持続、朦朧、沈静、覚醒…、そういった単語が舞い、それゆえこのアニメーションの歌での締めくくりを残念に思いかえした。


グスコーブドリの伝記』と同様なことは、例えば、山田洋次の『たそがれ清兵衛』にも云える。
ここでも最後の最後、井上陽水の歌声で奉じられる詩がいっさいをダイナシにした。
たぶん、これらは…、映画監督が音楽を過大に評価し、自身の作品のグレードアップと思っての器用か、あるいは、昨今の"実行委員会方式"での製作サイドの出資額によるパワーバランスな選択なんだろうが、内情はどうあれ、まったく、ダメ駄目ノーグッド。
それらミュージシャンの、"つまらないポエジー"が映画を破壊している。
叙情が歌手の情緒に流されてしまった。
なので、これはカッコ悪さの見本に価いする。



DVDで『たそがれ清兵衛』を再見するさいは、井上陽水の曲が出てくる直前で観賞を、終えるがいい。
いまさら云うまでもなく音楽はボクにとっても大事な呼吸の1つだけど、使う用途によっては諸刃な危なっかし〜火種にもなる…。


で。なぜか今…、小山ルミの『さすらいのギター』。

こういうストレートで、淡いけどとてもエロい歌って、今はないねぇ。
これホントは、楽器のみのインストラルメンタル。フィンランドのザ・サウンズというバンドの1963年の曲。
原題は「Manchurian Beat」。マンシュリアン・ビート。
訳すなら、「満州の鼓動」といったところか…。
フィンランドのバンドが何で満州なの? このタイトルじゃ売れないワ、との判断で邦題は意味さらに判らんチンな『さすらいのギター』。


それをさらに…、ガラリンコと違う内容な色っぽい歌詞を加えた1971年のカバーが小山ルミ。
ところがこれが意外や、なつかしく、逆にとても新しい。
とらえどころのない満州イメージより、ヴァージンロストのストレートな歌声がとてもヨロスィ〜し、邦題のギター云々は別にして…、エロい情景をあっけからんと歌って、いっそカッコ良さげ。


追伸:「グスコーブドリの伝記」をはじめて読んだのは中学生の頃と思うが、実は読み知るまで…、鳥の話と思い込んでた。
グスコーブ鳥


もう1つ追伸:片桐はいりさんに会えたかも知れないチャンスを逃した…。
 (>_<)