雑草もまた そよぐ


ポール・スミザーという人物。ガーデン・デザイナー。
この人を追ったNHK『プロフェッショナル仕事の流儀』の録画を、K殿下と妃殿下がプレゼントしてくれた。ボクがテレヴィジョンに接していないコトをよ〜く知っての贈り物。
あ・り・が・た・や




日本の自然、その良さを、英国人に教えられるというのも何だけど、視聴するや、眼と肩を同時に揺さぶられた…。なにしろ、足元で踏んづけてる草たちこそが主役というんだから、眼からウロコがポ〜ロポロ。
「ぁあ、なるほど」と感ずるトコロ大。羞恥を含んだ驚きを味わった。
それで、興がわき、氏の著作を何冊か購入。
眺め読んでるという次第。



我々が培われている感性は結構イビツ。
アガサ・クリスティが、卵型の頭をした小男のベルギー人がイングリッシュ・ガーデン造りにはげむその滑稽を描いたように、過剰のモノマネと思い入れが勘違いを引き寄せて、結果、右脚と左脚の寸法がおかしいという変なバランスを持つ…。
そう踏まえてガーデンを思うと…、風、雨、日光、土地の性質などなど風土環境に応じ則した草木を使う庭が、理想の1つだろう…、とは即に理解できる。


庭とは塀で囲った、"特別の場"。塀あるいは境界がなければ成立しにくい、いわばキャンバス。
そこで自然を徹底的に抽象し記号化した重森三玲の、驚愕の庭も登場してくる。
しかし日々毎日を過ごす場に置きたいのは、鮮やかな抽象ではなく、徹底の具象そのもの、自然の佇まいではあるまいか。ポール・スミザーはそこを思想化し実践する。



日本の草木は華やかでない。はっきり云って地味だ。
けども、それらを上手に使い上手に演出するのが庭造りというもんだろう…、その実践には時間もかかる、とスミザーはいう。
原色カラフラな花は少ないけど、英国などと違い日本にはその数10倍の多様多種な草木がある。彼自身が山に入って何年も調べ、庭に使えると判断したものだけで何と2500種類というから…、オドロキ。
その大部分をボクらは『雑木』『雑草』と決めつけ、ちぎっちゃ〜抜いて捨てている。
それらを活かして初めて、海外の人の眼にも、
「ぁあ、これが日本か!」
その素敵をアピール出来るんではなかろうか、ということなのだ…。




だから、スミザーのガーデニングは逆にいえば、限界がある。日本というフレームの中から出ないワケで…。
しかし、そここそが要め。大袈裟にいえば、自分がどこの何に所属しているか…、と問われるような、問うような、思惟的な庭造りといってイイ。無定型なイングリッシュ・ガーデンに憧れるよりも、このジャパンの自然の旨味をこそ庭へ…、というわけだ。



※ レンゲギボウシ
ギボウシは日本に天然に育ってた野草だ。和名は擬宝珠。多くは見向きもされなかったけど江戸時代の1部の好事家が庭で育てていたりした。
それをシーボルトが見つけ、持ち帰った。株分けされ増やされ、品種の改良が起き…、やがてヨーロッパ圏のアチャコチャの庭で愛される植物となった。
で、昭和になって逆輸入されて、な〜んか舶来♡ と喜んでるのが、今の日本。


さてと、「オオイヌノフグリ」。
気の毒にも"雑草"扱いで、どこの園芸SHOPにも売っていない。
けども、2月の寒さ勝ちの大地、そこいらの路端でまもなく点々と小さく咲くであろうコレだって、庭に使えるのだと思えば…、ちょっと裕福な気にもなるんじゃなかろうか。



オオイヌノフグリは外来の帰化植物
ポール・スミザーは、"雑草"という固定された概念は捨てて「足元を見よう」と喚起してくれた。
侮蔑的な名でこの小さな植物は損をし、出来たら改名が望ましいけど、数メートル四方の一画がオオイヌノフグリの白と青の花でいっぱいになってる図をみて、顔を赤らめる人はよもやあるまい。



古来からの日本の特有種イヌノフグリ。明治の時代に綿花と共に入ってきたらしきオオイヌノフグリの旺盛な活力にまけ今はそれに駆逐されつつあって、絶滅危惧種に指定されてる。もしも路端でこの花を見かけたら大事にしよう。種がとぶ頃合いに種をとって自宅に植えるもよし。


イヌノフグリとて、出自をまさぐると…、古来に帰化した可能性が高い。だから、何をもってオリジナルな日本かという問題が出てくるけど。ま〜そこは原理主義的偏屈は云うまい。