童話時代のうす明かりの中に ~J・エドガー~

もう7年も経っているの?…、と訝しむ。
3.11は、つい数日前のことのようにしか思えない。
揺れも波もなかった地域に住んでいるボクは当日の夕刻にTVニュースを眺め、夜は本行寺(蕃山町)という寺でのKazahaya君演出の芝居を観に出かけた。
しかしTV映像が頭に刻まれ、かつ続々にニュースが入ってくるさなか、眼の前の芝居に耳も眼も、ノレはしない。
役者たちの熱演もKazahaya君卓越の演出もが虚しく、遠い丘の向こうの手旗信号よりも意味が失せた。
いや…、より深刻だったのは演じている側の皆さんだったし、だからの熱演でもあったろう。
虚構が現実に追いつかないコトの衝撃に、打ちのめされた夜だった。


きっと皆んな何らかのカタチでそうだと思うけど、あの日3.11を、今も引きずっている。
ある部分において時計が止まっている。
ボクの場合はたぶん、芝居とか映画とかの"物語"の虚構、その強さの消失だろう。
トラウマになった。
それで、その止まってる、強いはずの脈動を確認に、しきりに映画をみる。時に芝居をみ、本を眺め、芥川の一節に耳をたて、その謎な深みに感電もしたい…、と繰り返し、気づくともう7年未来にいる…。

童話時代のうす明りの中に、一人の老人と一頭の兎とは、舌切雀のかすかな羽音を聞きながら、しづかに老人の妻の死をなげいてゐる。とおくにものうい響を立ててゐるのは、鬼ヶ島へ通う夢の海の、永久にくづれる事のない波であらう。
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童話時代の明け方に、獣性の獣性を亡ぼす争ひに、歓喜する人間を象徴しようとするのであらう、日輪は、さうして、その下にさく象嵌(ぞうがん)のやうな桜の花は。



クリント・イーストウッド監督の『J・エドガー』をこの前やっと観る。
ブルーレイ仕様版だけど、照明がヘンテコで、一瞬はフィルム・ノアール的犯罪暗黒っぽい味をめざしたかと思ったけど、どうもそうでない。
明暗がチグハグで落ち着かず、総じて画がみすぼらしい。
チッともブルーレイのありがたみがなかったのは、たぶん、レオナルド・ディカブリオもナオミ・ワッツもジュディ・デンチも、登場者ほぼ全員が老人の特殊メークだから、そのアラを隠すべくワザと照明を落とすなりポイントをずらすなり、顔への視線をそらしたということなんだろうが、良くなかった。



※ 老けメーキャップのディカブリオ

※ 老けメーキャップのワッツ


こたびのアカデミー賞チャーチル首相に変身のメーキャップで賞が贈られたりで、その辺りの技術は『J・エドガー』の頃から僅か7〜8年で格段に進歩したとおぼしきなれど、ま〜、その欠点はおき、フーバーというFBI長官が第29代のクーリッジ大統領から37代のニクソン大統領まで、ルーズベルトトルーマンアイゼンハワーケネディ、ジョンソンなどなど歴代大統領のプライベート情報を秘密裡非合法で集めに集めて、いわば彼フーバーにさからえない身に落とし込んで、それで長々と権力の中枢を担っていたという描写は、なかなか考えさせられはした。
総じてインパクトに欠けて強く刺さっては来なかったけど、権力を握るというコトの甘味さと、諸刃たる危うい苦みが伝わってはきた。



この映画ではフーバーの同性愛的身体&精神事情も描かれてるけど、そこはどうでもよく、立ち上がりは正義のヒトであれ、いざや権力を握ってしまうと、ヒトはその持ち味たる信念がいつのまにやらヒン曲がってしまったコトにも気づかぬという、その流体的おぞましさは感じとれた。ナオミ・ワッツ扮する最側近でながくフーバーに仕えた女性秘書がフーバー辞職直後に徹底的に証拠隠滅をはかり、以後彼女は没するまで秘密を口外せずというのも含め…。


今の日本の首相とその取り巻きはまさにそんな状況にあって、たぶん、自身のふるまいを正当化するごとにいよいよ自分すらも失ってるようなトコロで呼吸をしているんだろう。
断固自分は正しいとの盲信がゆえ、ひどく大袈裟に云えば、自身が国家壊滅のテロリストそのものということに気づいていないというような。
フーバーはいわば国家権力の中枢近くに生じたガン細胞みたいな存在だったかも知れないけど、かたやこの国の場合は中枢そのものが肉腫みたいな…、より危ないコトになってるんじゃないかと危惧して胸がズキズキ痛い今日この頃。



フーバーのスタートが、国会図書館での本と書類の整理、すなわち情報を如何にすばやく的確に得られるかの書籍検索システムの構築であったというのは、しかしオモシロかった。最初のチョイスは機関銃でなく本だったわけで。
それら図書検索カードと大掛かりな収納家具の一式すべてが、今も同図書館にはミュージアム的に保存されているというのも興味深い。
フーバーがそのシステムを自ら開発したのは1920年代だそうだから、彼は情報化時代を先取るパイオニアでもあったわけだ。スゴイのは、彼がその情報の波にFBI長官という自身を乗せあげ、ラヂオやスタートしたTV放送の上でヒーローであると仕掛けていった所だろう。いわば彼は、今風にいえば、ビッグデータを束ねて活用できる祭司となったわけだ。日本でも人気だったTV番組『FBI』もその流れの中にあったものかもしれない…。
でもやがて、彼自身の好むところの、彼自身の安泰がための情報収集と操作に堕し、『アンタッチャブル』な、おぞましい権力強化へと進んでいくんだから、う〜む。



というわけで、清廉でありたい…、ということじゃないけどちょっと眼の周辺をワイプして、スッキリ。
眼元を拭うと気持ち良いですな。つかのまですけど。


閑話休題で、ハナシ次いでの安否情報じゃないけど…、某夜某BARにて敬愛のマ〜ちゃんに会えて、何やらとっても嬉しかったなり。1年半っぷりくらいかしら。飄々な話しっぷりを久々味わえた。



で右側ボーイッシュの、繊細を隠し大雑把にみせる天才の正面フェースはこんな感じ。映画『プリデスティネーション』よりスチールをば借用で。
本中毒の彼女は今夜は何を読んでるんだろ?



※ 『プリデスティネーション』出演のこの方はサラ・スヌークといい、オーストラリアの女優なり。以前記した記事はココ