塗るストッキング

岡山シティミュージアムで児島界隈の繊維産業の企画展があったさいの同時進行的な講義で、明治岡山での絹(シルク)事情を話したことがありますね。
現在の県立図書館のすぐ近く、明治の一時期、そこに岡山製糸という会社があったこと、蚕(かいこ)から糸を手繰る手法などをハナシの核に、第2次大戦時の欧米のシルク事情も拡散的に話した次第。



※ 岡山製糸の工場模型。写真資料がなく想像復元ですので苦労しましたなぁ。


※ 現在のマップで見る。ピンク色の部分→繰糸工葉や寮があった場所。旭川とお堀に接しているのは大量の水(沸かして使う)を必要とする作業だから。下は県庁。左の大きなのが県立図書館。


ご承知の通り、明治の開国で、絹糸の製造は外貨収入の大半を担う日本の基幹産業、数少ないMade in Japanとして誇れるものでもあったから、当時国をあげてガンバッた。
品質の維持とさらなる向上は、絹糸の細さと滑らかさをいっそう際立たせ、同様な絹糸を算出する清とか英国の追従を許さないレベルのものだった。
繭(まゆ)の選別が際立ち、クズ繭を使わない。クズ繭は紬(つむぎ)に使うが江戸時代では二流品に分別され、それで屑だった。そこが明治に活きた。要は切れ切れの糸しか取り出せない繭は屑扱いで使わなかった。そこが他国のものとは違った。撚り合わせはするものの、やや大袈裟にいえば、糸と糸をつなぎ合わせることをしなかった。
明治25年には輸出総量は540万斤に達し、内訳としては米国に61%、フランスに35%が出荷されている。(絹糸の1斤はおよそ600g)



※ 繭。ちょっと驚くくらい白く軽い。1斤を得るには何千個もの繭が必要。


云うまでもなく、その品質の高さは…、多数の女子工員の隷属的労働が支えたものだった。高い技術力(お湯に浸けた蚕繭から糸を切らないよう取り出す)を持った女工員さんたちは高いノルマもかせられ、働きに働いて、苦痛を日常のものとして甘受させられつつも、寮生活でゴハンがたべられるし理容室も工場内にあるというアンバイで、実態として彼女達の労働こそが日本の収入を支えてるというコトはチョイと判らんような軟禁的搾取な男社会をば造っていた。
岡山製紙も、ま〜、その流れの中にある。60人の若い女工さんが住み込みで働いてた。(明治岡山には岡山紡績というのもあるが、それとは別なので注意のこと。岡山のレキシ本で時にこれをゴッチャにしてるのもあるので…、要注意)
住み込みで働くのは…、1つにはバスも列車もないんで通勤出来ないというのがあるけど、電灯がまだ導入されていない事もあって、夜明けから日暮れるまでの明るい時間帯およそ十二時間くらいに大いに仕事してもらって効率をあげるというのが理由だった。下の写真では、窓を外して少しでも明るくしようとしているのが判ると思う…。ぁあ女工哀史…。



彼女たちが紡いだ糸は米国に渡り、今度はそこで編まれてMade in USAとして製品になり、『スカーフ』や『絹の靴下』や『絹のストッキング』となって売り出された。
こういうのは素材が均一でないといけない。JAPANの絹糸はもってこいの素材だ。
わけても、『シルクのストッキング』は超がつくほどのヒット、大人気。
コットンのそれとは大違い。極薄で滑らか、それを身に着けることで、女性たちは過去に類例のない高みにまで登った自分自身を感じとった。2本脚がシルクのストッキングでもって、自分でもウットリなくらいに変身。すなわちそれが男性をひきつける魔力をもった小道具であるコトを知覚した。それに…、いささか高額なところもプライドを刺激した。
遠い東洋の端っこの島国でおびただしい人数の未成年者を含んだ女子工員たちが寮生活しつつ紡いだ糸…、というようなコトはどうでもよく、需要と供給はマッチしてクルクルクル回転し続けるハズだった。



※ 未成年者らしき幼っぽい顔の女工さん達


元より刺繍文化のフランスでは日本の絹糸を用いて豪奢なハンカチを造り出し、それを今度は日本が買ってとってもありがたがるというようなコトも起きた。明治半ば頃の日本では輸入ハンカチと西洋傘はステータスな舶来物として、ほしいモノの筆頭にあった。
米国では鉄道網の発展に伴い、カタログ通販の「シアーズ・ローバック」が急成長。田舎町へもシルク・ストッキングを送りとどけ、また量産化でプライスダウンにも成功しつつあった。



※ シアーズの通販カタログ。部分。


けども、亀裂した。
国家同士の軋轢が嵩み、米国は日本製品の国内進出を阻みにかかる。
日本が政治的態度を改めない限り、絹糸は買わないし米国内に入れない…。石油も販売しない…。
そうやってるウチ、一線超えちゃった日本のハワイ攻撃で大破局
米国は当然に反撃を開始する。
ナチス・ドイツファシスト・イタリアに次いでジャパンも加えてのワースト3つ揃えとして敵対し、富裕な米国も戦時体制となる。


たちまちに不足したのが、絹だった。
ストッキングのみに需要があったワケじゃない。実は戦争にも絹は用いられる。その最大需要は落下傘。ヨーロッパの戦線においては空挺部隊の活躍がめざましい。落下傘で大量の兵隊や物資を敵陣背後に投下する。
その落下傘の布地が絹なんだ。綿や麻じゃ引き裂ける。唯一、シルクのみが一人の男を高所から無事に落下させる素材なんだから、これが大量に要るわけだ。当時は空力学とかがそう解明されていないから、ヒト一人を空から無事に下ろすには大きな面積の、およそ今の学校の体育館の床面積ほどの布を必要とした。それが何万枚も必要だ。しかも使い捨て…。
映画『史上最大の作戦』で空挺隊の一人が協会の鐘楼にひっかかって、下に敵兵がいて難儀するという有名なシーンがあるけど、その時にジワジワ裂けていく落下傘の音が、まさに”絹を裂く”、それだ…。
その最大にして最良の絹を提供していた日本と敵対したんだから、当然に絹はなくなる。
それで米国内デパートなどでは、破けたストッキングや靴下でもいいから回収に協力してよ…、回収箱が設置され国をあげて再利用の努力をした。



※ 米軍の宣伝告知

※ 米国のデパート内の回収箱


さて、ここで問題がでた。
既に絹のテーストを堪能している女子一同にとって、シルク・ストッキングの入手難は致命的だ。恋人や夫が戦地に出向いてはいても、日常の自身の足をくるむストッキングがないというのは決定的にダメなことなんだ。欲しがりません勝つまでは…、の全体国家の日本と違い、戦時体制であれ米国や英国はストッキングを履く自由まで奪われない。


そこで登場したのが、”塗るストッキング”だ。
疑似かつ代用ではあるけど、そういうのが売りにでた。愚かしいといえば事実その通りだけど、一度ストッキングを味わってしまった足は…、ストッキングなしでは不安で仕方ないという心理がこのケミカル製品を製品たらしめた。
ここで紹介する写真は講義のさいに用いたものだけど、聴講くださった皆さん一様にこれを知らなかった。



※ 1940年の米国婦人雑誌の広告


※ 下の3枚は当時の雑誌『LIFE』の写真ページ。



知る手がかりを得たいなら、数年前にNHKで放映された英国TVドラマ『刑事フォイル』を観ると、よい。
DVDも出てる。
第2時世界大戦中の英国の田舎町での刑事ドラマで、意外や、とても秀逸。当時の事物風俗をよく再現している。
街を歩く人々がいずれも段ボール製みたいなボックスタイプのショルダーバッグを肩から下げているのが、すぐに判ると思うが、それが何だか、今のたいがいの日本のヒトは判らないと思う。





小さな親切で回答しておくが、これは政府が支給した毒ガス防御のためのマスクが入ってるんだ。
翻訳吹き替えにチカラを入れたらしきNHKだけど、でも説明を一切しないからチョット駄目。当時の英国やらの生活文化の事情にまでは眼が向いてないんだろう。


その第1シーズンでの1エピソード「エース・パイロット」に、”塗るストッキング”がチャ〜ンと出て来る。休暇で帰ってくるパイロットの彼氏とのデートのために、それを足に”着けて”るというシーンがある。米国だけでなく英国もそうだったんだね。



※ 『刑事フォイル』の1シーン。足に塗るストッキングの描写。女優さんの眉の濃さとカタチ、口紅の色合いなども…、時代をうまく描写してる。


戦争中の歴史を学ぶという意味では、こういう銃後の姿カタチを学ぶべきと…、ボクは思う。国民服にモンペで統一した全体主義国家とのレベル差も、これで知れる。
NHKはそういった風俗事情を説明しないから、テレビを観た多くの人には謎であったろうと、残念に思う。
意外やこの番組はアンガイと公平に当時を顧みていて、たとえば、イタリアがナチス・ドイツに加担したと報じられた途端、英国の町中、昨日までは友達のように馴染んでいたイタリア出身の家族経営の喫茶店が同じ町の英国人から迫害され店に火を放たれるというような描写もある。



しかし塗るストッキングはあくまでイミテーション、代用だ。
なにしろ、雨が降って濡れたりすると…、溶けちゃうし、”脱ぐ”ことも出来ずで、洗いおとすだけのミテクレ優先な代物だ。
なので、不満がくすぶり出す。政府に対して、絹を何とかしろ〜〜、クレームが寄せられだす。こういう庶民的内圧がイチバンに政府としては怖い。
そこで米国政府は、絹に変わる素材の開発に力を入れた。むろん、女性のストッキング需要だけにではなく、落下傘素材のためにだが…。
その開発に成功したのがデュポン社だ。ナイロンというケミカルな新素材を生み出した。落下傘という仕掛けでは絹より効率が高い。それに廉価で量産できる。



※ 開発されたナイロン・ストッキングの大宣伝


こうして、落下傘の素材が変更になり、同時に国内(英国を含め)での女性の不満を解消すべくな、ガス抜き効果としてのナイロン・ストッキングが大々的に売りに出される。



※ 発売初日の米国デパートの様子。最前列の左にオジサンもいるのは…、恐妻家ではなく、多めに買って転売しようと思ってるヤカラに違いね〜。ちなみにこれはまだ戦争中のヒトコマです。


戦時下の1943年にデビューしたかのスーパーマンの衣装は、今から顧みれば、それはナイロンそのものをアピールしたものだった。
大のオトナの男が身体にピッタリなタイツを履いてる滑稽は、けれど新素材誕生のブラボ〜!な凱旋的賛歌でもあった。
今どきの『アイアンマン』なんぞがロボティックな3次元曲線の金属素材で身をかためるのと同じで、時代が要請した装束なのだった。
その登場によって結局、JAPANの絹糸に依存しなくてもヘッチャラな国へステップアップしたわけだ、米国やらは。