不器用に造るが宣い 〜三遊亭円朝〜



土曜にTetsuya Ota Piano Trioのライブ。久々の会場係。
上写真はリハーサルでのヒトコマ。
片付け後、BARへ。退院直後のママさんに慰労のいっぱい。思わぬ出会いもあって数杯に。



日曜に桂そうばと小鯛の落語会。
先々週あたりから三遊亭円朝を拾い読んでるさなかでの落語会。なんだか不思議のタイミング。
そうばは聴くたび成長を感じる。いつも思うが”枕”がうまい。今回はじめて彼の創作も聴く。期待継続中。ただ「代書」はちょっと力が入りすぎた感。
小鯛は、2年前に聴いたさいは小骨ばかりで身が薄い…、と感じたけど、今回の「青菜」はま〜、少し肉がついた感あり。ある種の速度感も維持され、「おや?」ってなトコロもあって、やっと小鯛の名にふさわしい個体になってきたなとも…、思わないでもない。



月曜に某イベントの時間打ち合わせ。まだ先の事ながらそこは要め。
午後数時間、関連の資料探索に費やすも、出てこず。しかたない。これは日をあらためるコトに…。
以後、寝っ転がって円朝の続きを読むうち、ウトウト甘睡にひたる。


お江戸の末期から明治初頭を駆けた三遊亭円朝三遊亭圓朝と書いた方が、時代気分に手が届くような錯覚があって良いのだけど、ここでは円朝で統一。



円朝が創作し演じた題目のほとんどは当時の誰かに速記され、たびたび本にまとめられたから、言葉遣いがそのまま炯々とした文になって踊る。
だから明治の時代、文学を志した方々は皆さん、それを読んで驚いた。
説明としての言葉とセリフとしての言葉が溶け合い熱しあって、蔦のように高々に登ってく…。皆さん、激しく揺すぶられ、影響された。

陰々寂寞世間がしんとすると、いつも変わらず根津の清水のもとからこまげたの音高くカランコロンカランコロン…


上は「怪談牡丹燈籠」の一部だけど、擬音までが1つの文に溶け込んでるから、さぁ大変。
坪内逍遥二葉亭四迷、山田美妙、などなど…、皆っ、その口述を範とし、自身の作品に反映させた。”言文一致体”なる手法用語もここに登場をする。
文章大革命といって過言でない。
いわばテキストという乾燥物がテキスタイルな柔らかげな織物になった。
文章という代物がここではじめてライブ感を得たわけだ。グル〜ヴィ〜なうねりとスィングで、ジャズ&ロックしはじめたワケだ。
先例がないわけでもない。例えば坂本龍馬が土佐のお姉さんに出した手紙などには、口語へのアプローチがあって今眺めても随分に鮮烈だけど、当時はま〜、メチャな文章として定形外の外に置かれてたし、龍馬とてそれを意識していたハズもない…。けども、円朝は肉声がテキスト化される事をキチリと意識しての創作だった。カランコロン…の擬音に、この幽霊には足があるとの暗示の含め入れに成功した。


円朝は怪談モノや人情モノと共に日常のちょいとしたスケッチを高座で話すことも多であったから、事物の細部がくっきり見える。
例えば、手燭(てしょく)、懐提灯(別称は小田原提灯)、行灯(あんどん)、弓張提灯、ぶら提灯、雪洞(ぼんぼり)、などなどの灯り道具だけでも、その呼称と用例が当時を立体物として立ち上がらせてくれる。

暗ぅなりましたんで、小田原ぁ、取り出し灯(ひ)をいれましてね


と、あれば懐から小さい提灯を出したというコトだ。小田原提灯は灯りとしては広範囲を照らすものでないが、携帯することを前提に折りたたみ式なのだった。なので当然に小さいというコトも知れる。


また、話し言葉1つでもって心情の根ッコまでが透けてくる。
ま〜、そのあたりの感触を、明治の事物混ざりの空気を、気っ風を、学習したいわけで拾い読んでる次第。
円朝は創作にあたっては、ほぼ必ず取材した。題材とした土地を歩き、そこに住まう人に話も聞いた。そのあたりの真摯は森まゆみの『円朝ざんまい』に詳しい。彼女自身が円朝の足跡を追歩しての労作。良いガイド本にまとまって素晴らしい。
”考察本”としては矢野誠一の『三遊亭圓朝の明治』に教わるところも大だけど、いささか望遠レンズでの光景が過ぎ、森まゆみのような体温は伝わらない。



ボクがはじめて円朝の作品に触れたのは、10数年前、6代目三遊亭圓生の4〜5枚組CD『真景累ケ淵』で、これは弓之町のY理容室のY氏から、「怖いですよ〜」と頂戴したものだった。いや、じっさい怖かったの何の…、鳥肌だって髪の毛ェ抜けちゃってぇ、え〜、それでY理容室に行かずとも済むようになりまして。



森まゆみ円朝のセリフ、
『言葉は国の手形さ』
を心の内に深く刻まれているようだが、確かにそうだろう、合点がいく。


下記は「指物師名人長二」の部分。眼でかじるもよし、声に出して読むもよし。静謐な佇まいながら堅牢な美しさシミジミ。

 誰(たれ)いふとなく長二のことを不器用長二と申しますから、何所(どこ)か仕事に下手なところがあるのかと思ひますに、左様(そう)ではありません。仕事によっては師匠の清兵衛より優れた所があります。是(これ)は長二が他の職人に仕事を指図するに、何でも不器用に造るが宣(よ)い、見かけが器用に出来た物に永持(ながもち)をする物はない。永持をしない物は道具にならないから、表面(うわべ)は不細工に見えても、十百年(とっぴゃくねん)の後まで毀(こは)れないやうに拵(こしら)えなけりゃ本当の職人ではない。早く造りあげて早く銭を取りたいと思ふような卑しい了簡(りょうけん)で拵へた道具は、何所にか卑しい細工が出て、立派な座敷の道具にはならない。是は指物ばかりではない。画(え)でも彫物でも芸人でも同じ事で、銭を取りたいといふ野卑な根性や、他(ひと)に褒められたいといふおべっかがあっては美(い)い事は出来ないから、其様(そん)な了簡を打棄(うっちゃ)って、魂を籠めて不器用に拵えて見ろ、屹度(きっと)美い物が出来上がるから、不器用にやんなさいと毎度申しますで、遂に不器用長二と渾名をされる様になつたのだと申すことで。