中国文学十二話

あの大雨以来の雨。久々に庭木に向けてホースを伸ばしたり巻いたりから開放された。
おしめり程度ながら、若干の涼を感じないでもなかった。
お盆さなかの昨日までは暑かったね〜。
その暑熱の中、墓参り。
日中より朝がラクだろうと、午前9時にお墓に出向いたけど、なんのなんの…、早や強烈に暑く、蠟燭に点火しお供えたら、な〜〜んとアッという間に半分溶けちゃった。
あまりのコトに写真撮るのも忘れた、ワ。
別に怪異でも何でもなく、ただも〜ひたすらの暑さが石を熱くして蝋を溶かせただけのコトながら、とろけるチーズみたいな蠟燭にゃ、おでれ〜た。


かつてその昔、大雲寺に「岡山模型」というのがあって、そこの女主人が県北は奈義の日本原高原・自衛隊駐屯地に戦車見学にいったさい、鉄板の塊たる戦車がどれくらい熱くなるものか…、隊員が生卵1つをエンジンを止めた戦車のデッキ部に割り落として見せてくれたが、たちまちに煮え、透明の白身が瞬時で真っ白になったというハナシをしてくれたコトがある。
今は搭載の電子機器冷却にクーラーが内蔵されているけど、乗員用のクーラーというのは依然としてないようだから…、戦車というのは「住まう」場所じゃない…。女主人いわく、
「夏場の戦車は手袋なしじゃ〜触れんし、中は蒸し風呂なんて〜もんじゃぁナイ。ありゃ蓋したフライパンじゃ」
フイにそんな、遠い昔の声を思い出したりもした。



ともあれ、墓所の暑さと熱さで喉カ〜ラカラ。
そこからほど近い所にコメダ珈琲東岡山店というのが出来たばかりだから、都合よし。
アイスコーヒーで喉湿らそう。
既に汗いっぱいかいたから、コーヒーはノー・シュガーを好むが、ちょっと糖分をと思いシュガー入りを。11時までモーニングというから、ゆで卵のをオーダーしたら、さすがお盆だ、早朝から来客多しでタマゴが直ぐには茹で上がらないという。しかたない、小倉餡のトーストをチョイス。
ところがま〜、運ばれてきたアイスコーヒーの甘いのなんの。
近年これほどの甘汁を吸ったコトなし。くわえてオグラアン。
甘味ダブルス。というかオグラアンすら霞むコーヒーの甘さ。
名古屋ビトは朝からこんなアミャ〜のか…。
脳、溶けないか?
またぞろ怪異をおぼえた。
「加糖にしますか?」
以後、同店で問われたら、「NO! NO! NO!」三連チャンで応えるっきゃ〜ない。
しかし次は、みそかつパンじゃな…。



怪異といえば、仙人やらオバケやらの怪異談。やはり中国が本場かな…。
本場というのもおかしいけど、はるか大昔からオモシロイのがあるし、そこから想を得て、国木田独歩芥川龍之介などなどが新たな小説を作ったりもして、なかなか奥深い。
けど奥深いというのは、それだけ永きに渡ってアレコレな話が創られているというコトでもあって、そこに分け入るには、ちょっとしたガイドがあった方がいい。
キリスト登場前の紀元前1000年頃の「詩経」から紀元後1300年代の「西遊記」やら「水滸伝」までだけでも、も〜2300年をかるく越えるから、ハンパでない。



※ 「邯鄲夢の枕」より。茶店で横になる主人公の盧生。今から変な夢世界に落ちるという場面。唐の時代の喫茶店は憩いの場ゆえ横になってもイイという文化事情もチラリと判るの図。


明治33年に生まれ1968年に没した、奥野信太郎という人がいる。
慶應義塾大学の文学教授だった人で、昭和30年代にNHKのFM放送で12回に渡り「朝の講座」という番組の中で「中国文学十二話」というのをやったそうな。
没後にこの放送の速記録が本にまとめられた。
これがガイドブックとして、素晴らしいんだ。
時折り引き返すみたいにボクも読む。
3000年を越える時空の中に綺羅星めく生じた数多の作品とその背景をば、この先生は実にうまく案内してくれ、かつ、そこに見解を含み入れ、硬くなく、柔らか過ぎず、芯のある良い湯加減というアンバイでもって誘ってくれる。
という次第で、本日の読書は『中国文学十二話』。
はるか前、何かのおりウッカリ表紙に油染みをつくってしまったけど、これもま〜、この本の味わいとして…、ワンポイント。甘いコーヒーをこぼしたワケじゃない。



しかしまた奥野先生は、実は奥野先生そのものがオモシロくもある。
なにしろこの先生ときたら、戦前は外務省北京在勤特別研究員というチョットないポジションにつき、戦中は中国の人に中国文学を教え、戦後は日本で中国文学一筋だったにも関わらず、えらい学者でござ〜いの証明書みたいな論文はほとんど書かなかった。
昭和30年代頃は、このヒトは随筆家として知られ、また酒場でのハナシがメチャに面白いヒトだった。
専門である中国文学のことは随筆の中や酒場で雑談的に披露されるだけだった。なので学者仲間や門下生は酒場にノートを持ち込み、先生の話す文学的エピソードを「うわ、おもれ〜」とメモってた。
そんなんだから、学問における出世をめざすような人には奇異で奇っ怪な存在、
「なんで論文書かないの?」
ズイブンに惜しんだようだ。
けど本人は平気。学内に籠もったベンキョ〜の虫より、かつて神仙と遊んだ中国の詩人めく酒を傾け大いに談笑磊落するをよしとした。
NHKの講座も、講座終了後にNHKは本にまとめたく、大先生に依頼してはいたけど氏は自身の語った速記録を受け取ったものの、結局、書き起こさないままこの世を去った。
それでこの本は弟子というか門下生の村松暎がまとめた。
村松によれば、大先生は放送時、原稿もメモもなくほぼ’即興だったというから、やはりスゴイ。
どうスゴイかは、読んで知って欲しいが、長大な中国文学とその歴史を奥野信太郎はあったかい血として体内に循環させ、講義や酒場で多くを魅了させたと同様にマイクの前に立っていたようなのだ。



この奥野大先生をしてガ〜ンと云わせたヒトが、かつてあったそうな。
彼は学生になった頃にどこかのお寺さんで森鴎外が話すのをライブで聴いたことがあり、その席で鴎外は寺の、とある碑文の解説を頼まれ、しばし一読後、『春秋左伝』の中の一節を原文のままにスラスラと口にし、ややこしい碑文の中にその『左伝』を典拠とする部分があることを一同に、これまたスイスイ〜っと告げたんで、それでガ〜ンだったという。
上には上があるというコトだろうか…。時代に応じたスーパースターが出てくるのは当然として、何か、明治の日本はその輩出量が大きいよう思えるのは、それほどに明治が苛烈な時でアレコレの摩擦係数が高いから研がれるモノもヒトも多かったと短絡に解釈したいような…、気がしないではない。むろん、奥野信太郎も含め。


ちなみに最晩年頃の奥野や教授になった村松暎に学んだヒトに、草森紳一がいる。
あのおびただしい多岐に渡った探求と随筆的書籍の数々は、門下生としての本領発揮という次第だったか。
後年、草森は昨品社の「日本の名随筆 別巻95」の『明治』を編んださい、「板垣退助の涙」という一文を自ら寄せ、明治期の演説と70年代学園紛争でのアジテーション演説を比べ、かたや漢文調が入って大袈裟だけどリズムがあって情念を煽るに適していたが、70年代のそれは漢文調(脈)がないから、ただの怒号でしかなかった…、と奥野信太郎同様おもしろいところをついて読ませてくれた。