ひっくり返るな大仏さん

稲が育っている。
台風前日の秋色な空。
水田のあぜ道を縫うように自転車で駆け、湯迫(ゆば-岡山市中区)の浄土寺を訪ねる。
うちから近いので、訪ねるというホドのもんでもない…。




龍ノ口山を背にしたこの寺は、すぐそばまで出向いても存在に気づかないほど、上の写真の通り、クリーミ〜色の湯迫温泉のビル家屋に覆われている。
湯迫温泉に蚕食されているようなカタチ。下写真の温泉歓迎のゲートをくぐって、初めて、お寺があると判る…。
本堂を含めて社殿はいずれも江戸時代以降のものらしいけど、749年に創建されたというから、もう1269年も前からある古刹ということになる。
山裾に向けて墓が居並び、温泉旅館の後ろにこんなのあるのか…、そう思えるほどに意外と広い。
岡山市教育委員会が建てた看板を読むと、創建時は現在の数倍の面積をもっていたようだ。国府(今でいう県庁)のそばだし、それに相応する規模の大寺院だったろう。




かつてここに重源(ちょうげん)が来て、しばらく滞在し、あれこれと指図したことは間違いない。
奈良の大仏再興に尽力した、偉い仏僧として今に伝わる。
岡山は備前焼の地だ。大仏殿の瓦などを焼かせつつ、この浄土寺に湯治場を設け、ここを基地にして大仏復興の寄進を薦めた…、ということになっている。実際、東大寺の刻印が入った瓦が出土している。
湯治場があったことを物語る小さな溜まり(泉)もあり、石碑が立つ。




しかし、あれこれ本をめくるに、重源というヒト、ただも〜偉いヒトという一括りでは語れない人物だ。
座して仏法を語るような僧ではない。
重源の足跡をたどると、あまりに振幅が大きすぎ、等身がみえない。



等身が見えないというコトでは奈良の大仏もそうだ。
でっかい。
それが丸焼けになった。
1180年の12月。平重衡(しげひら)の軍による近隣への放火が広がり、アレレっという間に燃え移って、見るも無残な姿になった。
父親の清盛の命令での、大衆(たいしゅ・僧兵)を多数抱えていうことをきかない興福寺などを威嚇する目的での進撃と放火だが、重衡自身、まさか東大寺にまで火が入り、大仏殿まで燃えちまうとは、おそらく思っていなかったろう。
結果、彼は朝廷勢から徹底的に恨まれた。
挙げ句、平家憎しと義経に一ノ谷で追いこくられ、捕まって三重の木津川に連れてかれて首をちょん切られた。


焼けた大仏は、誰もそれを復活復旧出来るとは思わなかった。
大仏殿そのものが火ダルマになり、焼けた梁や柱や瓦が大仏の上に崩れ、数日かけて燃え続けて、火にくべられたサツマイモ同様なメにあった。
溶けて首が落ち、手が落ち、胴体も火ぶくれて崩れている。イモなら喰えるが、大仏は溶けた銅や水銀などで土壌も汚染した。
で、胴体は座したカタチのまま、炎天下に剥き出され、しかも、後ろに引っくり返りそうになっている。
そこで背後に土を盛った。山を造って、引っくり返らないよう応急された。


重源が復興の最高指揮官として任命されたのは、それから5年後のことだ。
自ら「やります」と名乗り出たというハナシもある…。
5年の歳月が、盛土に草を茂らせている。
焼けただれた末に5年放置されて錆を浮かせた巨大な仏像が、これまた巨大な山を背もたれにして座っている。
もはや誰も、その山は取り除けない…、と思ってた。
けれど重源は、大仏内部に潜り込んで調査し、重心を考慮した芯棒を入れたり溶銅を前方部に流し込むなどで補強を行い、後白河天皇の許可も得ずに山を撤去した。
当時も今も、天皇の許諾なく勝手に事を起こすというのは出来ないハナシながら、重源はそれをやった。
結果は上々で、大仏さんは山の背もたれがなくても座ってる。
結果の上々に、天皇すら文句のつけようがない。そも後白河天皇の命題は大仏復興にあるワケで、文句どころか、褒めるっきゃ〜ない。
重源61歳。強硬だ。
自立自座した大仏は太陽の日差しを浴びつつ、足場が組まれ、山であった背後に3つの炉が設置され、鋳型を起こされたりと、修復作業が進む。



※ 現在の大仏殿は2度めの消失後に江戸時代に造られた3代目。重源が復興させたものより一廻りも小さく横幅も28mほど縮んでる。


さて一方で、復旧プロジェクトは天皇や公家や武家の財布だけでは賄いきれない大規模なものだった。
巨大仏だけでなく、東大寺そのもの、その周辺までの再建整備だ。
そこで勧進という手法がフル活用された。
全国の一般人に寄付を募った。日本全土に向けて、ボランティア活動を募った。むろん、これには
「素直な気持ちで寄付すりゃ、あんたは極楽に行けまっせ」
という仏教的次第をからませてある。
が、重源の言葉はもう少しきつい。
勧進しなきゃ〜、あんた、まもなく白癩黒癩(しろはたけくろはたけ-重度の皮膚病)にかかりまっせ。で、それで死んでも無間地獄に落ちて脱出不可能だっせ」
ビビらせた。
脅しだ。
これは複数の彼の書いた文章にも残っている。赤い羽根を交換に渡したりはしない。


ただ、彼は恫喝しただけでもない。
より巧妙にボランティア活動に仕向ける策を、造った。
初期の鎌倉時代…、当時、一般に、お風呂はそうあるワケもない。ノミやシラミと共存してるようなアンバイが普通で、だから皮膚病にかかる率もずいぶん高い。
そこで重源は、湯治場を設けた。
効能をうたい、湯を使わせた。


以前にこのブログで浄土寺の湯治場のことを書いたことがあるけど、今はも少しオベンキョウしたから、もうちょっとリアルな感触で…、浄土寺のそれを眺められる。



当時、重源は朝廷から備前国の一部を「知行国」として得ている。
東大寺復興のために彼自身の財源確保の場として備前の一部地域(万富界隈)が彼に与えられたワケだ。
で、そこでは稲や麦が収穫される。古くからの焼き物の産地でもある。
要は税として重源はその収穫を受け取れる次第。公家でも武家でもないイッカイの僧侶が荘園的に地所を取得した初例か?



で、浄土寺の湯治場だ。
その背後は龍ノ口山。この山に旭川がぶつかっているから、山はその水を吸収し、それが南面の平野の土壌を肥沃にするという効果もあって、浄土寺の周辺を掘れば、良質な地下水が湧いてでる。雄町の冷泉はその代表だ。
その湧いたのを沸かせた湯治場だ…。現存する水の溜まりは、そのごくごく一部だろう。湯治場であったと思われる場所は今は湯迫温泉の駐車場だ。



おそらく地域の小集落ごとに”お呼び”がかかり、湯を使うよう薦められたはずだ。
多少の想像も含めていうなら、この湯治場につかって肩こりをほぐしたりシラミを退治したりした人達は、さらに湯上がりに粥も振る舞われた。
あるいは麦飯のようなものだっかも知れないが、ともあれ、湯と飯でほっこりはさせられた。
米であれ麦であれ重源の知行国の収益から出したものだ。
で、その振る舞いの御礼として、彼ら一般ピープルは重源に…、労働力を提供することになる。ま〜、すなわち労働力をば寄進というカタチで。



※ 金網の中の”冷泉”。


備前焼の瓦製造には、これは技術が要るから当然にそれなりの対価が、といっても、それはボランティア・ベースにのっとった少額な支払いであったろうが、木材を引く縄のような消耗品、それも頑丈で太くて長いのを作ろうとすると、そうそう専門職があるワケでもない。大勢の人が共同で作業しなくちゃいけない。
縄は、麻苧(あさお)を綯いて造る。麻縄だ。
湯につかった方々は、縄を造る作業を集落総出となって無償でおこなった。
初めて縄作りにチャレンジするワケではない。縄を綯う作業は農家の基本作業でもあったから、別にひどく苦労するわけでもない。ただ、求められるのは日常のサイズでない…。
大仏を覆う大仏殿を造るには、巨木が何100本も要る。1本が16〜20m、太さが1m70cmを越える。
それを引く太く長い縄がとにかく大量に必要だ。
縄不足は深刻で、重源の訴えで、朝廷から二度に渡って全国に督促されたほどだった。



大仏殿に使えそうな巨木は当時ですら、もう近畿圏にない。
周防国(山口県)でやっと大木が見いだされ、それらを使うことになるけども、遠方だ。
切り倒し、杣(そま)から川に運ぶだけでも大変な量の縄がいる。
川から海に運ばれた巨木は、今度は筏に乗せられるが、筏を頑丈に組み上げるには、やはり縄だ。
奈良では100頭を越える牛が1本の木を引っ張るけど、ここでも大量の縄だ。



重源は勧進のために全国のあちゃこちゃに湯治場を設けている。だから湯迫の浄土寺のそれも、大仏殿のための縄の確保のためにあったとも、云えるよう思う。
と、それにしても、奈良の大仏なんか岡山生まれで岡山に育ってるヒトは見たことはない。当時は写真なんぞはないから、ただもう重源が云うところの巨大な仏像を想像するしかない。
すでに400年ほど前から奈良にそれがあるという話は知ってはいても、見たことがなく実感がない。ましてや、それを修復すると云われたって…、
「この坊さん、話を膨らませて、でぇれ〜ホラ吹きじゃぁ」
信じられないヒトもあったろう、と思う。
けども、そこを重源は、
「風呂にはいれたんは仏のおかげ。忘れちゃ困りまっせ」
冷ややかに薄めを開けて睨みつけ、
「おかげをないがしらにするなら…、あんた確実に地獄行きやっ」
二の句をつかせなかったに、違いない。
そこには偉い坊さんというよりは、ヤクザもビビるような、あるいはヤクザ者すら掌でひっくり返すような強靭なコワモテが、まさに大仏のようにデ〜ンと居座ったヒトという印象を濃く残す。



重源の活躍…、というか暗躍に近い諸々の行為はまた日をあらためて紹介してもいい。
重源のことを書いた本は複数あるけど、書いてる人の立ち位置で重源の姿はまったく違うものになっている。やはり聖者として書かれているものが多いけど、花田清輝の『御舎利』(『小説平家』収録)と伊藤ていじのは聖者の看板を外して醒めた視点と考察が冴えている。高橋直樹の『悪党重源』はこれは小説だけど、ややヤリ過ぎで疾走ぎみ…。


史実の中の重源は、建久2年(1191)に室生寺の五輪の塔に納められていた釈迦の、いわゆる仏舎利が33粒盗まれたさいに、泥棒したと訴えられ、それで彼は東大寺再建を放っぽり出して一時、失踪逃亡したりもする。
森林伐採の重労働をボランティアさせられた周防の地元民とそのまとめ役らが不平不満を募らせるや、
「お〜、お〜、お〜、ワイの後ろにゃな」
源頼朝の名をちらつかせ、平家のように一族もろとも滅ぶで…、強権力の存在を匂わせて相手を竦ませた。
えらい坊さんというよりも、ドエライ怪物のような人物だ。


と同時に、その怪物のいささか理不尽な振る舞いを前にして、日本人は総じて…、おとなしいという印象を濃くする。
重源の「あっち向けぇ〜あっちッ」の号令にいとも容易に従ってるようで、どうもその心魂の根っこが判らない。
ま〜、もっとも、今どことなく東京オリンピックのためなら…、という妙な空気が兆しつつあって、国が大学生に向けて、単位取得の加算などをちらつかせてボランティアを「強いる」ような、国家総動員的方向での流れが加速しているのも重源の時代とそう変わらないし、それに応えようとする心情もまた多のようであるから、国家的プロジェクトのリーダーになった者には、あんがい「助かる」国民性なのかもしれない。
という次第で、重源という存在に興味ありで湯迫温泉の後ろに隠れた浄土寺を訪ねてみたわけだ。


え〜、ちなみに、灯台モト暗しじゃないけれど、湯迫温泉にはつかったことがない。
小学生の時に近隣の地域に転校して来たさい、周辺じゃ〜同温泉はラブホテルとして、いかがわしく見られていた。規模もささやかだったよう思う。
今は湯迫温泉白雲閣といい、ちゃんとした温泉と大衆演劇とおいしい料理でもてなされるらしく、京阪神方面からのお客も多いとか。
見栄えのいい送迎バスもあって、よく眼にする。
エエこっちゃね。
いやもちろん、ラブホテル時代(?)にも、エエ思い出がいっぱい造られた場所じゃあったろうけど、背後のお寺さんとこの…、やや昭和レトロな匂いがしないでもない温泉施設の関係までをボクは知ろうとは思わない。