明治お肉史 part.1

今回は11/17の講演内容に触れようとも思ったけど、チョット浮気。
明治の頃のお肉についてを。


ご承知の通り、明治になって日本は牛食するようになった。
ヒンドゥー教徒ジャイナ教の方が多数のインドなどの国が牛食を、イスラムの方々が豚食を今も基本的に忌避するのとは違い、明治になった日本は海の向こうからやって来た慣習にアンガイ容易にのっかった。
西洋人の振る舞いをコピーした。
日本の牛食のスタートは横浜だけど、といって、彼ら西洋人が日本の農家から牛を仕入れたかといえば、そうでない。
西洋人が当初日本で食べたのは彼らの船に積んで持ち込んだ肉であって、仕入れの先は隣国・清の港だ。
(腐敗防止には氷を使った。ボストン氷といい、はるかボストン港より横浜港まで運ばれた。当然に遠距離ゆえ溶解率も高くて高価だが、やがて医療目的でこれは日本でも販売され、やがて明治20年代にはかき氷に転用される)


大昔、卑弥呼の時代にこの国に牛はいない。馬もいなかった。
魏志倭人伝』は卑弥呼の都に牛馬がいないコトを奇異な光景として記述した。
やがて大陸から運ばれ、家畜として定着をする。平安の頃には牛車に使うなど、あたりまえに存在するものになる。


お江戸の時代、日本の農家は、なるほど牛を飼っているし、売買の対象でもある。
けども、それは喰らうものじゃない。
農業にとって牛は労働力として大事なものだから、母屋に住まわせている。
田畑では酷使するものの、夜は、1つ屋根の下、半ば家族的なポジションに牛を置いてるんだ。
だから、それを食べるために売ってくれ〜には、ひどく拒絶した。
ましてや肉食はご法度、いけませんというコトになってもいたから、山くじら(猪肉)や鶏(かしわ)は食べても、牛肉は心理的にも生理的にも食卓に登るものじゃなかった。
肉提供の最大の抵抗者は、牛を飼育している農家だった。


元治元年(明治元年の7年前-1864)に幕府は、洋人の食に対応するため、横浜の居留地海岸通に屠牛場を設ける。
しかし、上記の通りのありさまで近隣から牛を入手出来ずで、屠るとは知らせずに神戸界隈から牛を買い取って運んだという。
今のABE政権もそうだけど――いわば外圧に晒されるままに国民を騙す。牛を供給できるカタチにもっていったワケだ。



けどもま〜、好事家多し……。
一方で日本人は知らないモノへの興味の眼圧も高いんだ。
西洋人を真似てオコボレを頂戴するように居留地で食べてみりゃ、これがメチャに旨かった。
外圧どころか、旨味を知った舌が一変し、今度は内圧となって、「もっと喰いて〜」の声をあげさせた。
その声とほぼ同時期での開国だ。欧米文化こそがイチバンじゃ〜んという短絡で急峻な大波がドバ〜ッとやって来た。
政府自ら、西洋化の体裁を整えるようにして、「牛食は滋養豊富ナリ」と推奨するに至る。
結果としては「神戸のウシはうまい」という、いわばブランドとしての地域特性が牛肉に加わわりもする。
いわば、180度の大転換、ビッグバンが生じたワケだ。



その明治元年に横浜で創業した串焼き屋「太田なわのれん」は、炭火の七輪に浅い鉄鍋をかけ、牛肉ぶつ切りを味噌で煮、さらにネギを入れて肉の臭みを消すという方法を産んだ。
店先にのれんを掲げ、「うしなべ」と書いた。
これが牛鍋の最初の事例ではないけれども、文字として登場させたのは、この「太田なわのれん」だったようである。

そう……、ギュウナベではなく、ウシナベと云ったんだ。
で、アレヨアレヨという間に、鍋で牛肉を食べさせる店が横浜から東京へと増えてった。
肉を薄切りするスライサーなんかナイ時代だし、屠牛場も増えはしたが、鮮度という一点は曇ってる。
それで味噌で煮て匂いを消すが、ほぼ定番化した。



けども、ウシナベという単語は広まらなかったようだ。
明治5年に仮名垣魯文が『安愚楽鍋』を刊行した。
これは東京で大流行の牛鍋屋に出入りするピープルを滑稽な筆致で描き出した怪作で、今となっては当時の生活を知る良い参考書でもあるのだけど、ウシナベという表記は少ししか出てこない。
なんでも縮めちゃって云う江戸の気風がそうするのか、東京ではウシヤと云っていたようだ。
牛店、あるいは牛鍋店と書いてウシヤとルビづけされている。
時にナベウシなる表現もある。
断髪令が発布されたのは明治4年だけど、明治5年の同書の挿絵をみると、髷を結った者、ザンギリにした者、いずれもが七輪に小さな鍋をかけている――。
ご飯は添えない。酒と鍋だ。




記述を読むに、店の呼称より、もっぱら東京ピープルの関心は、肉の鮮度のようである。
「濱(はま)で屠(し)めたのをニンジンと湯煮にしたのを食べちゃア、実にこんなうまいもんはない」
と同書に、ある。
横浜から東京への距離が、まだ汽車のない時代の物流速度が、そのあたりに潜んでる。
同時に、これは味噌煮でないことも判る。
湯煮た後、醤油をかけたか、あるいは醤油で煮たか、味噌ダレだったか、いささか定かではないけども、少し年数が経って、ルポライターの先駆者とも云われる明治のヒト篠田鉱造の『明治百話』には、

 明治二十年頃の四谷の三河屋(牛肉屋)へ、月四回は欠かさず、掛取りや注文取りの帰りがけに押しあがって、杯一を極めるのが、番頭の約得、三河屋のおかみさんはよく知っていまさァ、ある日押登るなり、女中に向かって「姉やん、鍋に御酒だ。ソレからせいぶんを持って来てくンな」と吩咐けたら女中は怪訝な顔をして、帳場へ往ったものだ。おかみさんも解らないので、こりゃ解らないのが本統さ「何でございます。せいぶんと抑しゃいましたのは」と、ワザワザ問い合せに来たので、大笑いだった「ナニサ、玉子のことだよ。せいぶんをつけるからさ、この山の手では流行らねい言葉かい」と言ったもんだ。

※ 岩波文庫・下巻「集金人の約得」より抜粋。



ここでは生タマゴの活用が新規なものとして描写されている。
たぶん、明治20年頃にはもう味噌煮でなくても大丈夫な、鮮度を持った牛肉が市中に出廻っているのだろう。
ナマタマゴを使うことは、明治20年代になってやっと始まったらしきコトもこれで判る。


我が岡山で牛肉を食べさせた第1号は、可真町(千日前付近の旧名)の『肉久』と云われる。
肉久と書いて、ニクキュウと読む。
開業は明治8年頃で、珍しくもこの店では椅子に腰掛けるカタチで座敷ではない。それで「座敷スキ」と後に呼ばれもした。
牛肉にネギやその他を含め、タマゴ1ケがついて1人前5銭。
「すきやき」の名と、ネギ以外の諸々を一緒に煮る方法は関西がスタートなので、『肉久』はその関西スタイルだったろう。
この店を紹介しているのは当時出版された『岡山商工往来』だけど、当時の様子を描く別の本では、上之町(現在の天神町)の『和久七』が第1号と書かれていたりもして、どっちが1番だか2番だかよく判らない。
『和久七』は今は実に瀟洒で感じの良い写真館『島村写場』になっていて、2階のスタジオでパチリと写真を撮影してもらえるけど、同家には、明治の『和久七』時代の鉄鍋が現存する。


ウシナベ→ウシヤ→ギュウナベ
この名前の変遷を、ボクは面白がってる。
この岡山じゃ、そこはど〜だったろう?
というのが『亜公園』の中にも牛鍋屋があったんだ。
『和久七』から直ぐそばだ。いわば競合店だよ。
ご両者、鍋を当時、どう云ってたか、ウシナベかスキヤキか、そこを想像してるワケだんわ。


それともう1つ――牛丼のみがギュウドンといってウシドンじゃないのに、豚丼や鶏丼はなぜブタドンにトリドンなのか?
音読み、訓読みのこの分別化がわからない。
さらには、「親子丼」や「他人丼」や「木の葉丼」といったやや美しくって優しげな響きある単語を編み出した方々の俊才っぷりにも興味をもつ。
「親子丼」をオヤコドンブリじゃなくオヤコドンと命名したのは、どうも明治17年頃の神戸を起源とするようだけど、ふ〜〜む。
どうでもヨロシイことだけど、ちょっと、どうでもヨクもない。


〜続く〜