明治お肉史 part.2

近藤勇新選組の屯所で盛大に牛肉を喰っていたというのは、1つの定説というか、歴史の1コマと語られて、久しい。
彼が登場する映画を観ても、たとえば司馬遼太郎原作で昭和38年封切りの『新選組血風録 近藤勇』では近藤勇そのものの肉食シーンはないけど、お仲間どもが鍋を囲っているし、準主役の木村功が横浜で入手した肉(豚肉)を屋敷の門番に見せて門番を閉口させるというシーンもある。


比較的最近、中井貴一が主演した浅田次郎原作『壬生義士伝』(みぶぎしでん)では、近藤本人が大いに喰らっているというシーンもあった。
幕末の頃のトリビア集的な本には、「近藤勇は牛肉を好み、12人前を食べた」という記述が平然とあったりもする。これなどは近藤勇という人物の豪快っぷりや尋常でないっぷりを甚だしく広言するが、しかしだよ……、おかしいじゃないか。
そも、肉食がまったく浸透していない時代にあって「12人前」という、その1人前の肉量の根拠はどこから?
基本となる量すら定まってもいないのに、どうして12人前という数字が出て来るのかしら?
こういうのを”混同の勇み足”という。エエかげんなハナシと云わざるをえない。



※ 『新選組血風録 近藤勇』のシーン。木村功が豚鍋を作り、そこに市川右太衛門扮する近藤勇がやって来て、「養父療養中につき獣の穢れは遠慮願いたい」と苦言する。



※ 『壬生義士伝』より。椅子(!)に座っての食事シーン。


椅子はともあれ、近藤役の塩見三省沖田総司役の堺雅人が良い演技だった。中央は土方役の野村祐人。一方で主役の中井貴一は……、このヒトはどんな役をやっても結局は”善良でマジメな中井貴一”以外の何者でもなくチョット物足りない。
このシーンでは塩見扮した近藤が手づかみで肉を鍋に入れる。近藤勇という人物にボクは好感しないけど塩見の演技はどのシーンも好感。終始笑顔でエクボが愛らしかった実像の近藤に、四角い顔立ちとも相まって、イチバン近い、これは名演だったんじゃなかろうか。


根堀り葉掘り精査したワケじゃないけど、近藤勇の牛食が「事実化」したのは、子母沢寛が昭和3年に出版した『新選組始末期』から、続いて「新選組遺聞」、「新選組物語」と続くいわゆる”新選組三部作”から、らしい。
子母沢寛は大正半ば頃から頻繁に京都に出て取材を重ね、
「生き残りの老人の話は疑わしいものもあったが、私は『歴史』というのではなく現実的な話そのもののおもしろさを聞き漏らすまいとした」
と後書きに記すとおり、必ずしも史実の徹底追求が目的ではなかった。
とはいえ、知った範疇でもって作品化し、創作を加えていないから後年になって、これが第一級の新選組研究の文献になったというのは、むろん良く判る。
カポーティが『冷血』を生み出すはるか前に、子母沢はルポタージュのみで”小説”を編むという新鮮な手法を開拓していたワケだ。



司馬遼太郎浅田次郎も、でもって、それを原作とした映画も、いずれもがルーツを下っていくと、この子母沢の作品での近藤像がベースになっている。


けどもだ……、今あらためて久しぶりに書棚からホコリを被った子母沢の3部作を引っ張りだし、ウシだのギュウの一言一句を探して”原典”にあたってみようとしたんだけど、あら不思議や、どこにも3冊の中に相当する記述が、ない。
なるほど、新選組屯所前に、猪肉を売る女が出没し、隊士がそれを買っては煮て喰ってたという記述はあるけど、ギュウは出て来ない。
さて?
あれ〜?
ホントウは どこで育ったやら コンドウギュウ 
ひょっとして、これは司馬遼太郎がスタート?



※ 司馬遼太郎の1962年作品『新選組血風録』。映画『新選組血風録 近藤勇』のこれが原作で、食肉のシーンも描かれる。


※ その映画の牛鍋シーン。幕末〜明治における牛食は「酒の肴」であって「夕飯のおかず」じゃ〜ない。


”食物の歴史本”などと照合していくと、今、いささか近藤勇の牛食は過剰に描かれていると、いわざるを得ない。
幕末、西洋人がかなりいる横浜ですら牛肉入手は至難だったから、京都では増して困難であったはず。
そうであって、近藤勇が牛肉を好んで食べたというのであるなら、闇的なルートで牛を解体したであろうし、鮮度もかなり落ちたものという予測もできる。
映画『壬生義士伝』での近藤は沖田総司らと鍋をつついているが、画面中の肉は鮮度が良すぎる。
もし、そこに史実らしきを反映させるのなら、肉は赤が退色し、いささかグレーがかった色合いがいいだろう。
このシーンでは焼き豆腐と一緒に煮込んでるらしいが、これはハナハダいただけない。



なるほど、スキヤキは関西がスタートだけど、時代がそぐわない。
肉と一緒に具材を入れるスキヤキの興隆は明治半ばになって始まり、関東大震災後の大正末にやっと関東方面にも伝搬したというのが、”食物の歴史”的な本では通説として紹介される。
スキヤキ専門の店は神戸元町「月下亭」が明治2年(1869)にはじめたというが、その「月下亭」はいざしらず、新選組が羽振りが良かった頃の当時の流通事情を思えば、当然に鮮度の悪い肉だから、味噌で煮込んで匂い消しにし、具材はネギのみだったろう。
豆腐やらの具はかなり後年、ひょっとすると大正期になってだ。
映画は幾らでもウソを紛れ込ませられる素敵なメディアだけど、しかし主題に即してのウソでない史実の上に立脚すべきという、いわば背景描写のアプローチの重厚を思えば、鍋の中の煮えた豆腐らしきは『壬生義士伝』という映画の減点材料だ……。


福沢諭吉が想い出を綴った『福翁自伝』によれば、安政4年(1857)頃、大阪に牛肉を食べさせる得体の知れない店が2軒あったという。
そこの客はゴロツキと大阪船場適塾蘭学を学ぶ貧乏生徒のみで、一般ピープルは近寄りもしなかった旨を記している。
これが正しいのなら、近藤勇は牛肉は食べなかった……、とは断じられない。
京都界隈とて、その手の怪しい肉を扱う人物がいたとて不思議はない。
一説では、新選組の連中は、牛ではないけど、屯所でもって養豚していたともいう。
喰うために豚を飼育していたという。
「一般的じゃ〜ないけれど例外は常にある」
のたとえ通りで、やはり、何らかのカタチでもって牛肉を入手したのじゃないかとは、思われる。



しかし、どうもホンマの所を探ろうとすると、曖昧さが後味として残る。
明治から今に至るまで、まだ僅か150年なのだけど——  近藤勇が牛肉を食ったか食わなかったか、どんな味付けだったか、どんな風に食べたか――  このあたり、いま1つ、シャキッとしない。
歴史というものは、あんがいと大雑把で、部分に眼を近寄せると、たちまちに輪郭がボケるんだね。
そのフォーカスの曖昧具合が不思議。



過日。ピカピカ晴天の日曜、某氏宅屋上でのサンマ・パーティ。
某BARの20周年記念と某カップル成立の祝いを含め、にぎやかに。
そこで横浜から参加のS氏に、「太田なわのれん」(前回記事参照)の話しをば聞く。
明治時代の廉価な牛食提供と違い、そこからの連綿たるヒストリーが今や老舗中の老舗に同店を押し上げて、一人前のオーダーで1万円は軽く超えるようで、S氏をして、
「親族の祝い事あって一度行った。食べた。うまかった。しかし高額、当然にそうそう出向けない」
とのことながら、”明治から続いてる”というその継続こそが華。
一度行った、というそれだけでもはや充分……、羨ましい(苦笑)。


ながくなった次いでゆえ書き足しておくけど、明治の牛肉流行の背景には、神社優遇の政府の意向とが重なってる。
ながく親しまれた神仏習合が廃され、寺社が分けられ、そこに多数のオッチョコチョイが跋扈して、廃仏毀釈という弾圧的憂き目にお寺さんは直面し、戒律重視で肉食大反対の声をあげるどころか、自分のお寺を守るに精一杯というワヤな状況に晒されたもんだから、運動としての反対が出来ないまま、いわば時代に流された。
神道の方はもとより肉食を禁じていない。諏訪大社御頭祭(おんとうさい)の神饌は鹿肉だし、類する神社も多数ある。
そういう絶妙な違いと、そのパワーバランスの崩れが背景にあっての、明治の牛鍋大ブームだったと、いえなくもない。