明治の煉瓦


某日。
11/17講演のため、湯迫の浄土寺を訪ねる。
1週間前にアポをとってのちゃんとした取材。
前住職さんにお話を聞くということで学芸員Mと共にお約束時間に出向いてみるに、緊急入院され、連絡せずでまことに恐縮とのこと。
「あらま〜」
いやいや、くれぐれもお大事に……、というワケで結果として前住職さんの奥さんから僅かばかりの情報を得るという次第になって、退院されたらまた出向くというコトになっちゃった。
ま〜、しかたない。
壮健がなにより。御回復を切に願う。
聞こうとしたのははるか大昔の重源のこと。
彼は東大寺再建を一身に担ったさい、鎌倉時代の年齢常識をはるかに越えた61歳なのだったから、たいしたもんだ。
前住職さんの入院とを比較する気はないけど、壮健の一語が明滅しっぱなしの一日だった。


浄土寺鎌倉時代からの古刹。ここにかつて東大寺再建のリーダーたる重源が2年ほど住まい、湯治場が置かれた。
岡山の湯治場。奈良の東大寺。その再建の最高責任者・重源坊 ―― この関係と、いったい湯治場は、「善意の施し」としてのものであったか ―― その考察を次の講演でちょっと話す予定。



かつて湯治場であった場所。今も冷泉がわく。


某日。
旧後楽館高校の地所、すなわち亜公園であった場所に新造されるRSK山陽放送の社屋工事の現場から、甚九郎稲荷の境内へと、明治期の警察署の遺構(煉瓦の家屋土台部)が移される。
保護されるべき文化財として忘れられていた煉瓦のアーチ構造……。
遺構をすべて残すことは出来ない。
そこでアーチ部分の1つのみを保存するという方向でもって、作業が行われた。
 



模型再現の明治の警察署。アーチ部分が今に残る。


この先、これをどう保存し、どう展示していくか、幾つか考えなきゃいけないことがあるけれど、工事と共に消え去るという最悪だけは回避できた。
山陽放送さん、甚九郎稲荷を管理する岡山神社さん、解体工事を担うY産業さん、地域の方々、等々のご尽力あっての移動。
アーチ構造のまま持ち上げられるかと心配したけど、Y産業さんの巧みな技でもって無事に移動完了。





※ 上2枚撮影:久山信太郎氏


とはいえ、煉瓦構造を支える土台となっていた御影石とは分離しなきゃいけなかった。アーチが壊れる可能性が高かった。
それで取り外し後、これは取り合わえず、横に置くカタチで甚九郎稲荷に設置。
だからあくまで仮設置。2分割にして置かれた。
とはいえとはいえ……、重機がなきゃ持ち上げられない作業でもあるから、しばしはこの状態というコトになろう。



岡山警察署は、亜公園が閉園し、地所を岡山県が買い取って、同所にあった天満宮甚九郎稲荷と合祀させ移動させた後に明治39年に出来上がったもので、これは昭和20年の空襲で焼けるまで機能していた。
その家屋の土台部の煉瓦遺構なんだ。
天満宮甚九郎稲荷に移動し、ず〜っと年数が経っての平成の、2018年10月31日に、今度はまた警察署の痕跡が甚九郎稲荷に移動するというのは、なにやら御縁ある円環という感じがしなくもない。



※ 手前の石は関係なし。左が礎石の御影石2本、奥が煉瓦アーチ。


工事で出た幾つかの煉瓦砕片を頂戴している。
これは11/17の岡山シティミュージアムでの講演(2時からです〜)で、ちょっとだけ披露しよう。
明治時代の煉瓦製造の困難さを示す重要な、証拠なんだ。
というのが、煉瓦というのは窯で焼き固める焼き物なんだけど、西洋から入ってきた新技術としての煉瓦作りに明治の日本は苦労しているんだ。
明治時代の煉瓦構造物に我々がノスタルジーをおぼえる1つの原因は、その焼きムラにあるんだ。
既成品になりきらず、バラつきがあって、結果それで1ケ1ケに表情ができちゃってるからなんだ。
で、天神町の岡山警察署の煉瓦遺構だけど、砕片を手にしてみるに、煉瓦の中程まで火が入っていなくって、いわばナマヤケなんだよ。



鮮烈なほどの赤土色。
明治39年から平成の昨日まで119年間、この状態だったんだ。
でも砕片となって外気に直に触れたからね、この先、乾燥し、色の鮮烈さは失われるだろう。
なので一部の砕片はサランラップで覆い、11/17の講演まで鮮度を保持すべく努力してみることに————。