『Paul Smith』と『花戦さ』

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 日本の専売特許みたいに昨今しきりに用いられる「クール・ジャパン」は、労働党トニー・ブレアが首相だった1997年から10年間に渡って彼のスーツを担当したポール・スミスたちの『クール・ブリタニア構想』がオリジナルだ。

Cool Britannia - Creative Industries Task Force: CITF  ブレア政権時代の産業振興の一翼として提唱された)

 ベチャっといえばカッコいい英国みたいな感じをワールドワイドに発信し推進させようという試み。ポールやヴァージン航空のR・ブランソン達がメンバーでこれは政治的にも商業的にも大きなヒットだった。

 けど、ブレア時代は良かったものの、政権も変わってポールらが抜けたその後、ジワジワと概要が変質し肥大していって……、いまだオリンピックだのレガシーだの、その模倣をやってたらヨロシクはないぞ~、という指摘となるのが『文化資本』という本だけど、最近のポール・スミスの日々を追ったドキュメンタリー『Paul Smith』を観た。

 で、ポポンと膝打って感心したのは政治がらみな話でなく、純然たる服の事、時代による生地の硬さのことだった。

 

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 ご承知の通り、彼は60年代のホックニーの明るい色彩や、60年代半ばから70年代半ば頃に台頭著しいブリティッシュ・ロックのミュージシャンたちのファッションに着目し、そのテーストを隠し味的に、それも丹念かつ丁寧に取り入れるというスタイルをとって成功したけど、ではその頃の英国ロックの衣装がどういうものかといえば、それは時代をさらに遡る生地たちによるファッションなのだった。

 当時のアート気質なトンがったミュージシャンは、たとえば、スタピルフィールズの朝市でもって20世紀初頭の花柄なんぞの古いカーテンやらテーブルクロスをタダ同然で買ってくる。

 それをサビルロウの仕立て屋に持ってってスーツやシャツにしてもらってた。

 意外なことにスーツ造りの職人らはそれらヘンテコな依頼を拒否しない。頑固で律儀で保守的と”ジョンブル気質”はいわれるけども、

「ワイは着ぃへんけど、オモロイやん。よしゃ、造ったるワ」

 新規でケッタイなコトガラに首を突っ込みたがる性質もまた濃くあるんだろう。

 コンサバティブの表とプログレッシブな裏という意味で、それは現在のポール・スミスもまたその通りの気質を持った人の直系だろうけど、そうやって当時、例えば花柄のスーツだの、衿や袖のみにカラフルな他生地をあしらうみたいな、”非常識”なファッションが登場して時代の先端を泳ぎだし、その自由感が、戦争はもうウンザリだのの、いわゆる”フラワー・チルドレン”の装束母体となってった。

 

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 この格好にのみ注視して現象を探れば、時代がカクテルされた装いというコトになる。60年代という時代の生地に、より過去な布地がミックス、色彩と図柄が混ざった状態が現出したのだった。

 ただ、60~70年代ミュージシャンはエエ格好で奇抜を装うが、なんせ古いカーテン地やテーブルクロスの布などなど、ゴワゴワして硬くもあり、けっして着心地良いもんじゃなかったハズ。

 そのことをポールはドキュメンタリーの中で言及してる。

 彼は当時の若者文化の表層を見事に切り抜くが、当時の素材まで真似はしない。今は素材加工の技術が違う。同じ明るいストライプ柄でも素材も加工の琢磨も進んでより人体に馴染む生地が出来るから、そこが決定的に当時のモノとは違ってる。

 

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 2017年の映画『花戦さ』で感じた違和感は、その素材感だったのかもしれない。

 天正時代、すなわち信長が興隆の頂点と奈落に落ちた時代の京都の町並みと人の往来が本作には登場するけど、その町衆の装束にボクは妙な違和感をおぼえたもんだった。

 それがポール・スミスのドキュメンタリーで何ととなく氷解した気がするんだ。

 後期室町時代の装束でありながら、どこか違和があるのは、その素材の柔軟さにあると、みた。

 早い話、見た目、柔らか過ぎるんだよ。

 麻、葛などが主体の当時の着物は、実体はよりゴワゴワしたものであったはずなんだ。

 ひどくゴワゴワじゃないけど、しゃがんださいのシワの寄り方とか、肩部分の張りであるとか、かすかであるけど絶対的に現在の”製品としての着物”とは別物だったはずなんだ。

(木綿は天正時代を終え、いわゆる戦国時代を抜けてから流行りだす)

 そこが映画じゃ難しい。

 

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 今の衣装は今の素材で作られたものなんだから、柔軟性が違う。

 映画で使われた衣装にまさかそれは混ざっていないとも思うけど、今は麻とレーヨン、綿とポリエステルといった混紡でもって生地は柔らかさを出していたりもする。その違いのような感触がいみじくも映画の中に出てしまってる……、と薄々に感じるんだ。

 それに何より、背景にいる町衆の着物が皆、綺麗すぎる。

 主役クラスの方々の衣装は着古した感じや襟部分のほつれなど上手く造られていたけど、背景の方々がほぼ総員、「よそ行き」な感じ……、新品同様じゃ~いけないんじゃなかろうか。

 

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 もっともイケナイ違和だったのが、ヒロインの衣装だ。

 彼女は河原で拾われ、尼寺に預けられるものの、絵師としての力量を迸らせるこのヒロインの着物が華美過ぎだ。

 

 この当時の実際の記録として『おあむ物語』というのがある。

 石田三成配下の武士の家に生まれたおあむという女性が、高齢になった江戸時代の初期、尼僧になってから語ったのを筆記した、いわば自伝で、一民衆の生活史として天正期の戦国末期の貴重な資料となっている。 

「さて、衣類もなく、おれが十三の時、手作のはなぞめの帷子一つあるよりほかには、なかりし。その一つのかたびらを、十七の年まで着たるによりて、すねが出て、難儀にあった。せめて、すねのかくれるほどの帷子ひとつ、欲しやと、おもふた……」

『新・木綿以前のこと』 永原慶二著 中央新書 

 三成の下にいる武士(300石とりだったというから決して低い所得でもない)の娘であってさえ、この有様が実態なんだから、野村萬斎演じる池坊専好に河原で拾われ寺で保護されることになるヒロインが、下写真のような浴衣をあたえられるワケがないのだ。

 ちなみに、はなぞめというのは花をあしらった図柄じゃなく、何かの花から抽出した色で染めた麻をいう。麻は浸透性が高くて染まりやすい。おあむは思春の盛りをそのただの一枚で夏も冬も過ごしていたようだ。

 

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 この映画の最大の見所は、佐藤浩市演じる利休だと思える。いや正しくいえば利休を演じた佐藤浩市だ。

 演出上、狂言的な顔演技を願われたと思える主役の野村萬斎はややリキみ過ぎで、さほど自然体でないのが惜しまれる。むろん坊主頭になっての熱演ではあるし、かつての『陰陽師』を彷彿する所作が出てきてニヤリ北叟笑んでもしまうし、微細な表情の変化など素晴らしい演技なれども、佐藤の抑えきった利休へのアプローチの前では、いささか比重が違うような気がしないでもない。

 物覚えの悪い池坊専好の言葉に困惑やらプライドの矛先を失ったさいの絶妙な表情や、庭先に立ってジッと一点を見つめて棒立ちしている利休-佐藤の格好良さは、ポール・スミスを着たから見栄えいいだろうのレベルでなく、もうそこだけ切り取って額に入れてよい程に見事、存在が極まっていた。

 

 根掘り葉掘りすればこの映画の欠陥はいくらでも出てくるけど、けどもいわゆる華道のスタート地点に着目し映像化した一点はブラボ〜、素晴らしい。

 もちろん、だからこそ激しいほどに物足りないんだけど……。

 

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 物足りない最大は、花でもって秀吉を諌めるという原作の陳腐さが映画となっても引きずられるままで、花をいける、その精神の昇華と抽象化はこの映画では前面に出てこないコトだろう。

 なぜに、「生けはな」か? 

 なぜに、生花と書いて「しょうか」というか?

 なぜに、花は「立てる」のか?

 だから惜しいなぁ、と思うんだ、せっかくの題材ゆえに。

 それは概ねで室町時代の後期、池坊専応にはじまり、やがて初代となる池坊専好によって飛躍するという次第なんだろうけど……、その飛躍と定着をもっと花そのもので描けなかったか……、と惜しむのだった。

 京の河原にゴロゴロ死体が転がってる貧寒の時代さなか、なぜに花に向かうのか、その辺りの消息をこそ前面に打ち出して欲しかった。

 太閤を諌めるという程度の形而下で話を進行させるのは、いかにも花の存在を貶めるようで……、そこがハナじらむわけだ。

 

 もちろん見所あり。

 かつて実際に前田利家の京都邸宅に作られたらしき松を主体にした大砂物を映画の中でクッキリ見せてくれるし、事実、ものすごく迫力ある造形。

 

f:id:yoshibey0219:20190128181155j:plain           ※ 「花戦さ」オフィシャル・ホームページより

 

 ルネサンス期の天井一面の絵画同様、規模に制約されない伸びやかな昇華を見せられる。

 それは現在の華道家池坊が全面強力な協力しているから出来たモノだろうし、それはそれで素晴らしい。ノコまで用い、自然な感じを"作為"する「造型妙味」をこの映画では見せてくれる。

 が、逆にいえば、その関与があるゆえに映画的冒険が出来なかったとも思える。遠慮な気配を微かに感じる。

 コンプレックスを背負い込んでいる秀吉(市川猿之助の絶妙な演技が冴えてる)の、その哄笑でもって家臣一同も笑い出す顛末には、たとえそれが哄笑であって爆笑のそれではなかったにしろ、そこでもって思考停止しちゃってるようでいただけないし、ヒロインが生き返ってるラストは、あまりにひょっこり唐突で漫画チックじゃなかろうか。

 終わりのスタッフ・スクロールでの池坊への配慮には、野村萬斎が力演して云う「花の中の仏さん」には遠い、家元制ピラミッド構造が透けて滑稽、巻頭であげた『文化資本』に描かれる、

「少数の人ではなく多くの人に」

 との当初のクール・ブリタニアン構想がやがて、

「少数のために、多くの大衆のためでなく」

 という流れとなったとする指摘と重なって、妙な既視感をおぼえるのだった。

 たぶんもっとも残念なのは、ラストの河原シーンでCGで花を咲かせたことだろう。池坊の全面協力があるに関わらず、デジタル描画の花で映画を閉じちゃ~イケナイんでないのかしら?

 

f:id:yoshibey0219:20190128181256j:plain               ※ 劇中に登場の見事な立花。

 

 ことさら、花を生ける行為を神聖視するワケもないけど、しかし、日本の出版業界というのは……、1本映画が出来ると速攻でムックを出すから便利だね。

 入門編として実に重宝。でも一方、こういうのを眺めて学んだような気になって自己完結しちゃうコトもまたデッカイのが難点。

 

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 表紙でもって、「豊臣秀吉に戦いを挑んだ戦国乱世の花人」とあるのは、あくまで映画のこと。この辺りの虚実の曖昧が問題だ。

 実際の池坊は時の権力にぴったり寄り添うて生息し、またそのことでもって華道家としての地盤をかため、免許皆伝という巧妙でもって花いけを商業化していったとみていいだろうから、ファンタジーとリアルを一緒にしちゃう本造りはいささか……。

 

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 原作は開栓した発泡酒を一晩置いてしまったような、キレなくコクなく、さらにあげれば、背表紙が装画の色に重なって読めないという最悪部類の本だったにしろ、映画の脚本(森下佳子・「JIN-仁」を脚色)は原作の薄っぺらをかなり上等にグレードアップさせてる。

 彼女が、ムジンサイという新たな人物を創って背景に置いたことでちょっとしたフカミを醸させるのに成功しているようにも、思える。

 このムジンサイというのは、当時の戦国武将なら誰もが知っている人物で、そこに着想を得て名を借りたと思えるが、もしそうであるなら森下氏のワザありと云わねばなるまい。まっ、それは別機会にでも。

 

 ま~、けどもされども、次なるを期待するという導火線役として『花戦さ』は、異議ありじゃなくって意義あった。

 華道をテーマにした映画は他にないんだし、読んでつまらなかったけども原作もまた、この映画で面目を得た。

 ポール・スミスを持ち出して衣装に言及したのは、室町前期の花いけの興隆にヒョットして当時の方々が着衣した着物の、そのつまらなさが影響していたかもという疑念めいた感じも受けたから……、だ。

 花ぞめとか、アレコレとアプローチしてみても、依然として実際の花や葉の活き活きたる華麗に及ばないがゆえにの、人の、花への憧憬が濃くあったんじゃなかろうか? と思ったのだ。

 憧憬は常にそれを越えたい願望がからんでくる。そうであるがゆえ、人は花をいけようとする、掌握したくって……。

 もしそうであったなら、こたびの映画での町衆の方々の衣装はやはり今風に出来上がり過ぎて、花よりも華やかに見えもして……、華道のスタート地点を描くには眩い過ぎる存在だ。京の町衆の装束はもっと色のない粗末な感じを前面に出すべきものだった、と思うんだ。

 ともあれ。ま~ま~フゥフ~、願えるなら花をテーマにした映画にまた会いたいもんだ。『2001年宇宙の旅』っくらいのブッ飛んだのに会いたいもんだ。

 

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 なが~くなった次いでだから……、紹介。

 某ダイニング・バーに置かれてる本。池坊で修行したらしき筆者が日々毎日にいけた花の作品集。

 ちぎれて枯れかけた一葉をあえていけてる。これは鮮烈だった。

 川瀬敏郎『一日一花』 新潮社

 

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 これは、某バーの片隅。

 花をなりわいにする某Mちゃんの初春モードの逸品。

 写真におさめるにはヤヤ難しいけど、「東海の小島の磯の白浜……」と啄木が詠んだ情けなさではなくって、どこか鶴と亀が潜むような長寿安泰めいた風合に好感させられた。都合よくも右手の万成石のアート小品が海辺の岩場のようにも見え。