花戦さ 余談

 前回記事で触れたムジンサイについて。

 ムジンサイは無人斎と書く。

 歌詠みの人でもあったから、これは号。正確には無人斎道有という。

 本名は武田信虎

 かの武田信玄に追放された、その実の父親だ。(信虎43歳・信玄(晴信)は20歳の時の事件)

 信玄は父を追放して甲斐の領主となって後、歴史上に名を残す快進撃を続けるワケだけど、あまりその父のことは語られない。

 

 息子の信玄に追い出される前、彼が躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた - 信虎の住まいで現在の甲府市の礎)の中の一室・竹ノ間にて猿を飼っていたことは、『武田三代軍記』にも載っているから事実だろう。

 「白山」という名がついた大きな猿で、一室を与える程に信虎は溺愛していたようだ。

 

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                  『武田三代軍記』の該当部分

 

 その「白山」の世話係の武士が猿のあまりの振る舞いに激昂して、ある日、猿を殺してしまい(上の該当部分、左側後半に顛末が記されている)、それで怒った信虎は武士を惨殺してその家督も消滅させたりと……、配下の者への手ひどい扱いが追放劇の一端だったとの説もある。

 襖という襖に竹林が描かれて豪奢であったろう竹ノ間は荒れ、掛け軸も襖も破れ、畳は糞尿で汚れに汚れて異臭を放っていたろう。そんな部屋の中の猿一匹を世話させられた末に殺されてしまった家来は、哀れ気の毒というほかない。

 

 けれど、息子に追放された信虎が野ざらしのフ~テン虎さんになったかといえば、そうでない。

 しっかり生き、駿河と京都に屋敷をかまえ、京都界隈の有力者六角氏や公家らと連絡を取り合っては何事か策動し、足利義昭とも結託したりのあげく……、追放した信玄よりもはるかに長生きしちゃったこともまた、事実なのだった。

 織田信長がなくなった後も生き、当時としては大変に長寿、81歳で没したというから、えらく元気だった。

 彼が京の都で何をどう密かに策動していたかは定かでないから諸説入り乱れて現在にいたる。

 追われた甲斐の国を取り戻したかったのか、あるいは実際は……、信玄とも連絡を取り合っていて、まったく密かに信玄と共に武田家覇権をホントは画策していたかも知れずで、いわば彼は逆境にあえて身を置いた武田の第1級なスパイであったかもと……、幾らでも想像できるホドに、彼の事績はよく判っていない。

 信玄没後にはその弟の信廉(のぶかど)と会い、久しぶりの親子対面で意気投合、信廉は絵師の才もあったから父親・信虎の肖像画を描いてもいる。信玄の跡を次いだ勝頼とも会って何事か談合した気配もある。

 

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絹本著色武田信虎像(武田信廉画 山梨県甲府市大泉寺蔵)

 

 信玄のあのデブっと肥えた体躯から来る印象とはまったく違って、信廉が描いた袈裟姿の信虎は細身。どこか冷暗な策謀家といったシャープさがあって、畏怖をおぼえるような凄みがある。

 ひょっとすると信玄以上に、甲斐の武田家を代表する人物であったようにも思われるけど、どういうワケだか認知度が低いのは、その取っつきにくく、気を許せない得体不明の雰囲気が遠縁にあるのかもしれない。

 下のアップをご覧よ。唇のカタチ、眼の凄み、僧形ながら襟の合わせを緩めにした野生味など、これらパーツが醸しだすのは負性なキャラクター性というもんだろう。

 眼球を白く描いているのはひょっとして白内障だったのかも知れないけど、たとえとして良くはないが、印象として、近頃の「スターウォーズ」シリーズの、ダークサイド側の親玉スノーク(だっけ?)とも相似する……。

 それほどに、この絵の人物は”魅力的”だ。

 

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 この謎の信虎 = 無人斎をヒントに、脚本家・森下佳子はそれを猿の絵を描ける絵師として『花戦さ』で使ったんじゃないかしら? そう勝手な想像をめぐらせているワケだ。

 もしそうであるなら、ものの見方を変え、人物を換えて、猿というキーワードを投影させたその秀逸が際立つのだけど、さて、どうだろ?

 

 黒澤明の『影武者』では、仲代達矢演じる信玄に、大滝秀治の山縣昌景が、

「お屋形さまはしょせん甲斐の山猿じゃ……

 可笑しみを誘う嘆きごとをいうシーンがあったけど、甲斐に限らず、かつて当時この国は山野だらけなのだから、猿の人口もまた多かったろう。あたりまえのように山に猿がいたろう、ね。

 ボクは猿が大の苦手で、子供の時、名古屋のでっかい動物園の猿舎前で嘔吐したこともあって、この1件で決定的に嫌猿家になったから……、猿人口が多かったであろう戦国時代はとてものこと生きづらい。

 そうでなくとも群雄割拠、戦国武将という名目でもって得体知れないボス猿みたいなヤカラがこれまた山のように生息していたんだから、とてものこと。

 だから織田信長が、いみじくも若い秀吉を「さる」と呼んでいたのはチョット象徴的だ、ネ。

 映画『花戦さ』での秀吉は、その「さる」の呼称を侮蔑と沁ませてコンプレックスの塊りと化した人物として描いてるようではあったけど、あたらずとも遠からず、秀吉もまた激しく猿嫌いであったに違いない。

 

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枯木猿猴図(こぼくえんこうず)長谷川等伯1539-1610)の代表作品 重要文化財

 

 信長は信長流の愛あっての「さる」の連呼だったろうけど、受ける本人は呼ばれるたびに赤裸な恥辱を浴びるようで苦痛であったろうし、そう云われてニコニコしてなきゃいけなかった我慢と鬱屈の堆積もまた大きかったに違いないだろうし、その克服がらみな対処として、マゾヒズムを一身に受け入れた果てにサディズムに転化燃焼させ、勇猛し、やがて、黄金の茶室だの、朝鮮出兵だの、派手な振る舞いに出てったとも云えるかもだけど、結局は他山を見られないサル山のボスでしかなかった感は、攻撃的な黄金の茶室というカタチに濃厚に出ている。

 簡素を極めるというカタチに向かう利休の飛翔に秀吉はついていけず、ついていけない自身の感性に怯え、利休が絶対に嫌うであろう華美をあえてその利休に造らせるコトで束の間は嗜虐に昂悦したろうが、彼は自身の山を出られない猿であることをも強く再認識もしたろう。

 その一点において信長がつけた愛称は正鵠を射たものだったかもだ。

 

 『花戦さ』では信長を中井貴一が演っていて、ま~、悪くはなかったな、1つのサル山のボスの顔としては。

 ただ中井さんは良い意味で云うけど何を演っても中井さんだ、邪気を孕んだような凄みはない。いわば ”中井貴一”というネームのフード・チェーン店みたいなもんで、褒めて云えば、実に安定の味わいを醸す存在なんだ。

 

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 どの店もトンガリ屋根の「長崎ちゃんめん」。どの店も同じ味だから好もしい。なのでボクのリピート率が高い。中井貴一さんにはそういう味わいがありんすね。

 

 ところで、戦国の時代、戦争に出向いたさい徴兵されて最下層の立場に置かれてる人たちには、昼食を含め食事は毎日支給されていたのかしら?

 何だかどうも、チャンとは届いてないような……

 道中、食べられる廉価なチェーン店があるでなし、小銭あるでなし。自分用の米をどうにか掻き集めて持参してたり、そこいらから略奪して来なきゃいけない行軍もあったんじゃなかろうか?

江戸時代になった頃に書かれた『雑兵物語』では、たしか、戦場にかりだされたら仲間の飯でも躊躇なくぶん取らないと生きていけないみたいなコトが書いてあったような気がするけど、この本、書棚のどこに置いたかみつからない。

 文庫本って、見失うと実に見つけにくいカタチだと思いませんか?

 

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 ともあれ、そういう悲哀を帯びた末端の兵士さんが行軍の道沿いの草むらで、モソモソと何か喰ってるのを、その界隈にお住まいの猿やらキツネやらタヌキは、クツクツ笑って見てたんじゃなかろうかしら。

 ならばいっそ、化かしてやろか……、アン饅頭に見せかけて馬糞なんぞを1つ丸くにして転がすとかで。

 池坊専好が花をいけてたのは、野山あって獣も多々いて自然は活き活きながらも、ヒトの争いたえずなワヤクチャな内乱時代だ。そんなさなかに花と向き合うというのは、なかなか出来ないこと。

 なので、興の尾がなが~くひかれる次第。

 芥川はそのあたりを含むであろう気分をば……、こう書いてたね。

 

童話時代の明け方に、――獣性の獣性を亡ぼす争ひに、歓喜する人間を象徴しようとするのであらう、日輪は、さうして、その下にさく象嵌(ざうがん)のやうな桜の花は。